「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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「角田柳作が語りかけるもの」(25)
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パネルディスカッション
内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):できれば、もしよろしかったら冨士子さんがいらっしゃいますので、一番身近なところから。僕は聞いたことがありますが、いかがでしょうか。英語で結構です。
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星野冨士子:父が書いた最後の詩ですね。それに関しては、やはり甲斐さんがおっしゃっているように、アメリカにまた帰るという意味だったと私は思っています。なぜかと言いますと、キーン先生が最後に父に自分の後をとって教授をしてほしいと行ったときに、私がまたアメリカに行くの、この年で、と言ったときに、父はアメリカに行くなどというのは、大阪から東京に飛んでいくのとあまり変わらないのだ、と。アメリカに行くというのは短距離だから、そんなに心配することはないと。やはり父の心は、アメリカという国は非常に住み心地のよい慣れた国であって、日本は母国であり、心から愛しているが、またアメリカにも行けるときがあるのではないか、と心に願って書いた詩ではないかと私は思っています。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):大変貴重なお話で、私も角田柳作の書いたものをいろいろ見ますと、やはりパーマネントに住みたい、永久にアメリカに住みたいと柳作先生は言っています。そのように考えますと、今の冨士子さんのご証言と大変一致するものがありますので、やはり日本に永久に帰るというよりもアメリカに帰るというのが彼自身の意思ではないのではないかと思われますが、いかがでしょうか。
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ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授) ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授):ちょっと思い出したことですが、最晩年ではなかったでしょうが、永井道雄さんが角田先生を尋ねたときに、角田先生のお宅でご馳走になりました。しかし、角田先生はあまりおいしい料理ができません。旅先ですから、と言いました。永井さんは旅先という言葉に驚きました。30年前からそこに住んでいたのに旅先なのかと思いました。つまり、私の感じでは角田先生には2つの国がありました。もし、戦争にアメリカが負けたら角田先生は非常に悲しかったでしょう。日本が負けたので、悲しかったです。しかし、日本が負けましたが、その代わりに若いアメリカ人が角田先生の下で日本のことを一生懸命勉強したいということもありましたから、なぐさめになったのではないかと思います。ともかくそう信じたいです。

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