「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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「角田柳作が語りかけるもの」(7)
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パネルディスカッション
内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):いずれ徴兵されるならば、武器を持たない兵隊になりたいというお気持ちだったと考えてよろしいでしょうか。
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ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授) ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授):おっしゃるとおりです。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):そういう形で日本語学校に行くのですが、先ほど1943年に戦争に行って一時的に仮釈放中の角田先生を励まそうとアメリカに戻ってきたときですが、そういう情報はどういう形で伝わって、では行こうということになったのですか。
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ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授) ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授):それははっきり覚えていません。角田先生はコロンビア大学で教えておられるとわかっていましたから、コロンビア大学に、あるいは電話帳を見て角田先生に電話をかけました。そして、私たちは3人で日本料理を食べて、とても楽しく思いました。もう1つは、私はとても安心できました。つまり、戦時中に敵性外国人としていじめられているだろうか、と心配していましたが、そうではないとわかって安心しました。ちょっと話はずれますが、福島の図書館に朝河貫一さんの手紙が保存されています。その中に、角田先生に送った手紙があって、それにももし何か不愉快なことがあったら知らせてくださいということでしたが、やはり不愉快なことはなかったようです。角田先生は無事に戦時中も教えることができたのです。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):確か福島には朝河貫一から2通、角田先生に対する心配の手紙があって、私も確認しましたので。そういうわけで、特に励まそうというときは何を話したかなどはどうでしょうか。
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heinrich ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授):それははっきり覚えていません。いろいろ雑談、私は角田先生と別れてから海軍の日本語学校に行って、日本語を覚えました。毎日何かの形で日本語を使って、日本軍が残した書類を読んだり、日本人捕虜に会って尋問したりして、そういう珍しい経験をしました。普段想像もできないようなことでした。私は21歳にもなっていないときにすでに捕虜の尋問して、自分より年上の日本人に、日本のために生きてください、と説得しました。そのような経験がありましたから、角田先生にそういう話もしたはずです。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):ほかの方、もしその時期のことでご質問などあれば。なければ、例えばちょうど今日ご出席のエミー・ハインリック館長がおられる東アジア図書館は新しくできた場所だと思うのですが、当時の日本ライブラリーが入っていたのは別の場所だったはずなのですが、そこに角田先生を訪ねるのでしょうか。

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