「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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「角田柳作が語りかけるもの」(15)
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パネルディスカッション
角田修 角田修:ちょうど展示会でも展示されている書簡が一番面白いと思ったのですが、柳作が東京専門学校に入学した直後の書簡だと思われます。というのは、保太郎から柳作に対してお金はどこの郵便局宛に送ったらよいのか、下宿代はいくらなのか、養蚕の関係の人とコンタクトをとってほしい、などといった内容を掲げたものがあります。それに対しての柳作の返事という形になっていますので、その中で特に下宿代はいくらであるなどと書かれていた後に、養蚕の関係の伊藤さんという方を訪ねてほしいという保太郎の手紙だったのですが、現在は忙しいので伊藤さんのところには行っていられない、と言っておきながら、柳作と一緒に、柳作を連れて富岡に移った角田伝兵衛という人がいるのですが、その伝兵衛さんと一緒に牛肉を食べてお酒を飲みました、という文面が書いてあるものがあって、その最後に、この手紙を書き終わったら下宿代の督促がありました、という文章が残っています。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):中学生になっても、東京専門学校時代も書簡が多いと思うのですが、その時代はいかがでしょう。特徴的なものは。何か浮かび上がってくるような。
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角田修 角田修:中学校に入学したのが明治23年4月で、ちょうどその年の6月に東京で内国博覧会というものが開かれていまして、それを見に行きたいのでお金を送ってほしいと。それを見に行って、そのパンフレットと見に行った報告を保太郎に書簡で出しています。それには、千載一遇の好機だからお兄さんもぜひ見に行ってくださいという文面が残されていました。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):確かに今おっしゃったように、お兄さん思いというか、父親代わりだったと思いますので、兄弟の心温まる交流が、お金を要求する背後には非常によく窺われる書簡だと思います。最後くらいの、明治32年くらいまであるということなのですが、その辺はどんな時代だったのでしょうか。書簡からわかる。
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角田修 角田修:その辺りはちょうどやす夫人と結婚する直前くらいのところなので、夫人との結婚の内容が記されていると思います。まだあまりよく読んでいないので…すみません。

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