「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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「角田柳作が語りかけるもの」(20)
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パネルディスカッション
角田:よろしいですか。柳作先生が3Lというカードをお持ちになって、それを配って歩いていたということは、皆さんご存知ないでしょうか。前橋高校で話をしたときの講演の記録があるのですが、その中で3Lについて相当まとまったお話をされておられるということで、今のように単純にお考えになるのはどうかと思うのですが、いかがでしょうか。それについての資料は、実は私はニューヨークの甲斐さんはよく存じ上げていまして、甲斐さんからもいろいろ資料をいただいていて、その辺をもう少し詰めてみたいと思っているのですが。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):それは確かに存じていますがちょっとコロンビアの…
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会場より(B):甲斐さんがインタビューの後にそのことをおっしゃっていたので。そのことについては展示に入っている上州なんとかという雑誌の中にもう少し詳しく説明が入っていると思います。Lawが何を意味するかなど、それぞれのことが書いてありますので、それを読んでいただければ。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):僕もそのことは知っていますが、ここで僕が代弁して説明するような問題でもない感じがします。
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角田:せっかくの機会だからと思ってお聞きしたのですが、お答えが得られないのであればそれで結構ですので。どうも失礼しました。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):何かほかにありますでしょうか。
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会場より(C):今日は大変興味深いお話を聞かせていただいてありがとうございます。2点ほどパネリストの方々にお伺いしたいのですが。1つは角田柳作と戦争との関係についてです。角田は日米戦争が始まった後も、アメリカに留まることを選択しました。交換船で帰国することもできたのですが、42年6月以降も帰国することを留まったということです。他方で、今日知ったのですが、文生書院から出される角田柳作著作集の紹介の中に、日中戦争の時期に角田は1938年の時点で日本の大陸進撃について肯定的な発言をした、日本を擁護するような発言をしたことが紹介されていて、日中戦争、あるいは日米戦争について、角田はどのような考えをもっていたのか、態度だったのか。これは和田先生が前田多門との関係で30年代の角田についてどうだったのか、と触れられたことも若干関係があるかと思うのですが、お伺いできれば。

もう1つは、私は今E・H・ノーマンについての博士論文を書いている者なのですが、ノーマンと角田の関係についてお伺いしたいと思います。司馬遼太郎氏のニューヨーク散歩という話の中では、角田の弟子の1人としてノーマンの名前が挙げられているのですが、他方でノーマンは自分の博士論文をコロンビア大学に出したときに、ヒュー・ボートンから受け入れられないと却下されて、結局ハーバードのほうに改めて提出して、ハーバードにはエリセイフがいたわけですが、そちらで取得したという経緯があると。角田柳作とはノーマンは大変友好な関係というか、敬意を持っていたという証言をいくつかの本から読むことができるのですが、角田とノーマン、1938年から39年頃までニューヨークにいたわけですが、どういう関係だったのか、その後お聞きになることがあったのならば、キーン先生、ハインリック先生、和田先生にお話しいただければ、と思います。

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