「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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「角田柳作が語りかけるもの」(21)
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パネルディスカッション
内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):和田先生、いかがですか。
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和田敦彦(早稲田大学准教授) 和田敦彦(早稲田大学准教授):私も聞きたいような話です。実際に38年から39年に関してもそうですが、私自身は角田柳作自身の研究者ではないものですから、どうしても角田柳作の活動を外側から追っていまして、具体的に戦争に対して彼自身がどのようなことを書いているのか、あるいは残っている書簡自体がこの時期に関してどのように触れているのかということは、まだ私自身は十分知らないのです。ですから、本当に教えてほしいというか。もちろん内海先生が詳しいと思いますので、その辺りのことは私もはっきりとさせたいというか、今現在のところどこまでのことが明らかになっているのかということは知りたいと思っています。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):それでは私から話します。1つ目の戦争との関係ですが、1944年段階での記述によれば、角田は日本政府の中国侵略については反対であったと。学生たちにもそう言ってきたという記録が残っています。同時に、仮釈放から開放されてコロンビア大学の教壇に立つのですが、その段階でやはり当局から日本に忠誠を尽くすのか、アメリカに忠誠を尽くすのか、ということを絶えず問われるわけです。交換船で帰ることを拒否した以後、そういうことを問われます。それで、やはりどちらが負けるのも見たくない、嬉しくないということを言っています。ですので、自分は人種の関係でアメリカ国籍を取ることはできなかったかもしれないけれど、日本の国籍を持っている以上、日本が負けることはそれほど歓迎すべきことでもない、言えない、と。同時にアメリカは自分の国という認識をしているので、アメリカが負けることも嬉しいとは思わない、望んでいないということを明確に言っています。そういった意味では、日米の架け橋という言い方よりももっと非常に複雑なものをもっていて生き抜いていくと。日本に帰らないでアメリカで自分の生涯の仕事としてコロンビアでの活動を最優先していく姿がそこにあるのではないかと思います。

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