「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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「角田柳作が語りかけるもの」(14)
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パネルディスカッション
角田修 角田修:書簡の関係でお話ししますと、家に残された書簡が明治23年4月から32年11月まで、柳作が13歳から22歳、なぜかその間のものだけが残っています。13歳の4月というと、群馬県尋常中学校に入学してから、その後京都に移るのが32年9月ですので、京都に移った直後までの足かけ10年間くらいのものが残されています。私が見た50点程度の書簡の中には、柳作からの書簡はほとんどが兄・保太郎への仕送りの…お金を早く送ってください、と。お金を送ってもらわないと外にも出られないというものがほとんどです。逆に保太郎からは結局保太郎と柳作の父が明治15年に、保太郎13歳、柳作が5歳のときに亡くなりまして、ちょうどそのときコレラが流行っていて、その関係の熱病で亡くなったと思い出の記の中には記されています。結局保太郎が角田家の家督を継がなければいけないということで、小学校を来春に卒業するときに小学校を中退して家督を継いで、実際は自分も勉強したかったのでしょうが、家業を整えていかないといけないということで、小学校を卒業していません。ですが、その後に保太郎は、近くにいたイケダセイゾウという人について勉強したりしています。あとは午前中の内海先生のお話にも出てきましたように、実際に耕す農業よりは、保太郎自身も言っていますが、山林や植林関係の仕事のほうが好きだと書いてあります。特に柳作が東京専門学校に移った後には、保太郎の書簡の中に、確か出版社の名前まで指定して、山林の関係のこういう本を買ってすぐに送ってほしいとか、その中に私は本が読みたい、ということを記していたりします。保太郎自身も非常に勉強したかったという思いがあって、その思いを弟に対しての書簡の中で綴っているものがあります。私が見たのはその程度なので、そのくらいのお話しかできませんが、そういうものが残っています。
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内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):その点について少し補足しますと、柳作の後の回顧によれば、父、保太郎はやはり養蚕と山林をやっていたのですが、どうも山林のほうに、今おっしゃっていたように愛着と言いますか、つまりそれは自分の代だけではなくて父親、その前の祖父の代、かなり大きいスパンの中で植林の持つ意味のようなものをよくわかっていたのではないかと思います。と言いますのは、こういうことを紹介しておきます。つまり松の木よりも、落葉林のほうが好きだったと保太郎は述べています。つまり、松の美しさよりも落葉林が好きだったということは、そういった長い土地を守るとか、そういったことをやはり保太郎自身は思っていたのではないかと。郷土を愛する気持ちが非常に強くて、そういう中で保太郎は小さい柳作を山によく連れていったと言います。大きい杉の木に抱っこして、そういう中で柳作は原始的な宗教心のようなものが芽生えたのは、保太郎が自分を山林に連れていってくれて、そういった散策の中で自然の大きさのようなものに親しみを覚え、偉大さを覚えていったのが、どうも自分自身の宗教心、その後仏教など様々な形で研究していくのですが、そこだったと言っています。

そういった意味では、書簡の中から見える柳作像というのは、お兄さんとのそういった心の…確かにお金をよこせという無心がほとんどです。しかし、やはりだからこそ逆にそういったものを無心できたのではないかと思います。中学校に入って直後のものに、ウエブスター辞書を買いたいので至急お金を送れ、と。最初読んだときは、きっとまた別のことに使いたいのだ、そういう書簡だろうと思ったら、実際に今回改めて整理している中で、ウエブスターの表紙だけが出てきました。最初は何かペラペラのものだったのです。よく見てみるとウエブスターを本当に買っていたということです。朝河貫一などもそうですが、当時の中学生は英単語を覚えるために辞書を食べたというのですが、まさにそのエピソードに習うように表紙しか残っていません。ですから、展示のほうに行ったら表紙だけ展示されていますので、ぜひ。本当に食べたかどうかはわかりませんが、ただ、それだけ使いこなしたことはたぶん事実だと思います。

あとはどうですか。中学校時代の柳作の手紙で大きな特徴みたいなものは。

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