「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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「角田柳作が語りかけるもの」(22)
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パネルディスカッション
内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):ですから、Japanese Culture Centerの設立も、基本的には日米の開戦を回避する方向の1つとして彼自身は位置づけたのではないかと思います。その理由の大きなものは何か。それは当時の日米関係のあり方、日米の貿易構造を見れば明らかなわけで、日米関係における経済構造、当時は綿織物業と生糸貿易が二大貿易品であったわけですが、もう1つの生糸貿易はアメリカ市場に向けていくわけです。それは大体4割近くです。対アメリカの貿易構造の中では、ほとんど90%以上生糸貿易が占めているわけです。そういった関係の中でニューヨークに見ている…生糸貿易のマーケットはニューヨークですが、そういう中でなぜ岩崎小弥太が3年間のタームで資金援助をするか。これは日本郵船だけではないのですが、日本船団がやはり生糸貿易を圧倒的に支えているわけです。その日米経済構造をやはり保たなければいけないと。そのためには日本を理解する。本当はハワイで日本人移民たちのアメリカ社会への同化といったものを考えるのです。しかし、ニューヨークに来て、それも確かに大切なのだが、確かにアメリカナイゼーションというのはそういう意味ですが、それも大切だけど、同時にアメリカにも日本の図書館を置くことによって、アメリカ人にも日本のことを理解してほしいという視点がある。それは基本的には日米戦争を回避する方向性を持っていた。

その根拠は、ニューヨークは日米貿易の1番の重要なポイントだったのです。そこを避けると。そういった意味で、彼の戦争に対する考え方は極めてはっきりしていると僕は思っています。そうしなかったならば、Japanese Culture Centerはたぶん成功しなかったと思います。というのは、1929年にJapanese Culture Centerが成立するわけですが、その年はまさに金融恐慌が起こるわけですが、日本郵船はまだ黒字です。しかし、1年後になると生糸貿易が一気にその影響を受けるわけですから、日本郵船は2年間連続の赤字になります。そうすると、1年遅れてしまったら、岩崎から3年お金を出すという発言は出てこなかったと思います。そういった意味でのタイミングが非常にあったと思います。そういった意味で、彼は戦争といったものに対して、ご指摘のように、最初は満州事変に対する認識が鋭かったとは思いません。しかしながら、だんだんそれに対する危機感はやはり持っていたと考えたほうがいいと思います。

もう1つ、E・H・ノーマンに関してですが、彼はコロンビア大学には所属していませんでした。別の形で研究のためにニューヨークにはいたのですが。やはり1つはそこで角田の助言を大いに受けたと思います。というのは、彼のドクター論文のプリフェイスにきちんと角田に対する感謝の念がそこに記されているからです。僕は、カナダのバンクーバーにあるブリティッシュコロンビア大学に文書があるのですが、そこにその関係の、角田宛の書簡があるかどうか見にいったのですが、残念ながらありませんでした。逆にないということは、恐らく頻繁にノーマンから角田との関係でしばしば会っていたのではないかということが、プリフェイスの角田への感謝の念があったのだろうと考えています。よろしいでしょうか。

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