「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
HOME
あいさつ
開催報告
プログラム
フォトギャラリー
リンク
お問い合わせ
早稲田大学HPへ
「角田柳作が語りかけるもの」(5)
前のページに戻る前のページに戻る
パネルディスカッション
角田修 角田修:先ほど申しましたようにかなりの量があったので、逆に自分の手でまとめていくのにも、私の代になって資料を紛失しては大変だと思いまして、群馬県立文書館に多くの資料を寄託しました。その中でも、葉書には素人の私でも読めそうな内容のものがありましたので、それを50点ほど手元に残し、それを徐々に読みながら「いぶき」という小冊子を作って、内海先生たちに送っていました。

一方、そのホームページから矢吹晋先生という朝河貫一研究をしていらっしゃる方にメールを差し上げて、朝河貫一研究会において話をさせていただいたことがあります。そのときに持参した資料を基に旧赤城村教育委員会の文化財関係資料集第七集角田柳作ということで、教育委員会さんのご厚意で出版されることになりました。その後は赤城の歴史資料館の紀要にいくつかの文章を掲載させていただいています。

今から2年前の平成17年11月19日、神奈川県二宮にある徳富蘇峰記念館というところで、これもウェブサイトで見たのですが、柳作の書簡が4点残されているということだったので、それを拝見して、その後に星野冨士子さん宅を初めて訪問して、その後に渋沢研究会で行われていた内海先生の発表を拝聴するなど、この辺りから多少東京へも足を伸ばすようになりました。また、内海先生と一緒に星野冨士子さん宅を訪問したり、角田卓也さんの案内で小平にある柳作の墓参りなどもしたりして、柳作の親族の方ともお会いすることができました。

今回、我が家にあった資料のほとんどを一度早稲田大学にお預けしまして、その結果、東京専門学校時代に柳作が著した『社会之進化』の翻訳の草稿、またはその原本、ウエブスター辞書などが次々と発見され、これもきっと祖先が私をして早稲田大学にお預けした結果であろうと考えています。

最後ですが、つくづく今ありがたいと感じていますのでは、保太郎・せん、祖父・祖母は一郎・まさ、父・母が末男・久美子というのですが、それらが資料を保管し、守ってきたからこそ、現在私がこのような形で柳作の資料を紹介することができたと思っています。今回、角田柳作展の開催にあたってご尽力された皆様方に感謝を申し上げて、自己紹介とさせていただきます。ありがとうございます。
-
内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):どうもありがとうございました。あのときの雷は東京で聞くのと違って、本当に頭の真上で鳴る雷で、柳作先生もこういう経験をされたのだと、大変良い、貴重なことを今思い出しました。そのとき、全然あてもなかったのですが、これらの資料をぜひ早稲田大学に寄贈してください、と勝手なことを言っていたのですが、とりあえず今日のようなシンポジウムと展示会など様々なことができて、大変感無量です。

それはさておき、これからディスカッションしていただきたいと思っています。今回のシンポジウム、あるいは午後のディスカッションをするにあたっても、一番外部から電話で問い合わせが多いのは、キーン先生は何時からお話をするのか、何を話すのか、ということがほとんどです。やはり私としては直接角田先生に習ったということで、できるだけ偏ってはいけないと思いますが、やはりキーン先生にご自身の体験をたくさん吐き出していただきたいと思っています。午前中にも話題になって、先ほど和田先生も話題にしていただいたのですが、海軍の日本語学校に入りますが、先生が午前中の話の中で日本語を勉強したいために海軍に入ったとおっしゃいましたが、その辺のシーンをもう少しお話ししていただきながら突破口でいきたいと思います。

前のページに戻る 010203040506070809101112131415161718192021222324252627 前のページに戻る


プログラムへ戻る --- Pagetop