「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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「角田柳作が語りかけるもの」(4)
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パネルディスカッション
内海孝(東京外国語大学教授) 内海孝(東京外国語大学教授):すぐ折り返しキーン先生に聞きたいことがあるのですが、とりあえず一通り4人の方に自己紹介がてらの話をさせてください。次は角田修さんですが、実は今回角田柳作の展示については、角田が生まれた群馬の本家筋の…こういう言い方はよくないのかもしれませんが、そこで代々角田柳作関係の資料を継承してきて、現在角田修さんの代になってくるわけですが、この間いろいろ角田柳作という紹介の本なども、あるいは論文なども数点書くようになってきて、今では角田柳作の研究の第一人者ではないかと思うわけですが、角田さんから自己紹介がてらよろしくお願いします。
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角田修 角田修:こんにちは。角田修と申します。こういったことは生まれてはじめての経験ですので、かなりお聞き苦しいと思いますが、自己紹介させていただきます。私は角田柳作の故郷、現在は群馬県渋川市赤城町となっていますが、そこから参りました。自己紹介を兼ねて、学問研究に素人である私がこのような形で皆様の前に座ることになった経緯を改めて文章にしてみましたので、それを発表させていただきます。

私の曽祖父は角田柳作の兄で角田保太郎と申します。私は、その保太郎の家系の中で柳作と同じ本籍に生まれました。子どもの頃から柳作という名前だけは聞いて育ちました。我が家においては、まず私の父、角田末男が柳作に関心を持ち、いくつかの本を読んだり、ドナルド・キーン先生の本を読んだりして、特に昭和58年の2月11日、鹿野政直先生と佐藤能丸先生、お2人の早稲田大学の先生が我が家を訪れて、それ以降、父の関心がより高まって、国会図書館などで調査したメモや、展示会でも展示されている柳作の書について記した文章や、近所の方への聞き書きや新聞の切り抜きなどが残されていました。さらに父は早稲田大学で行われた鹿野政直先生のご講演も拝聴しに行っています。そのような形で父が柳作の研究を進める一方、余談ですが私の息子、父によっては孫ですが、孫には柳作から一字を取って柳一と名づけたりもしています。そんな父が亡くなり、今月、10月15日にちょうど10年が経過しました。

私は父が亡くなったことをきっかけに赤城村に戻り、そこで我が家に残されていた資料と出会うことになります。さらに角田柳作の伝記を書くこと、と記した父の手記がありまして、それを見たり、私の祖父母と柳作の3人が水上温泉の水上館の前で撮られている写真などがあり、そういうものを見たりしていく中で、柳作に対してより身近な、柳作を自分にとって身近な存在に感じられるようになりました。そんな中で私はそこにあったそれらの資料を紹介していこうと心に決めました。それが逆に柳作や保太郎について紹介することであって、また、父がゆくゆくは伝記を書こうとしていたことを知りましたので、私が継いで自分で伝記を書いてみたいと思うようになりました。そんな中で、柳作について私が何でも知りたい、もっと知りたいという思いから、写真が残されていた早稲田大学の鹿野政直先生にお手紙を差し上げたり、佐藤先生にお電話をしたり、いろいろとお話をさせていただきまして、そこで紹介を受けたのが今回のシンポジウムのコーディネーターである内海孝先生です。

我が家に残されていた資料というのは、柳作関係の書簡、写真、その他のもの結構量がありました。ただ私も小さいころから歴史が好きだというだけで、自分ではどうすることもできないと思いまして、内海先生に一度資料を見に来てくださいとお手紙を差し上げまして、平成11年の夏に内海先生を我が家にお迎えして、資料を見ていただきました。これは短時間であり、群馬の夏ですので雷が鳴り響いてくる中でしたが、内海先生はその資料のほとんどをご覧になって、それを横で見ていた私はやはり大学の教授はすごいと感じました。また、内海先生を敷島駅という最寄駅に送って、戻ってくる中で、自分としては内海先生を見て、その先生の真似をしてみたいと思ったのかな、と今でも思ってしまいますが、これらの資料を自分の手でなんとかまとめてみたいと思いました。

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