「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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角田先生と私(4)010203040506070809
ドナルド・キーン コロンビア大学名誉教授

私は海軍の日本語学校に入った時点では、カタコトの日本語も話せなかったです。私は先生の講義のおかげで徳川時代の思想家の名前も知っていましたし、朱子学派の人たちはどんなことを言ったか、あるいは陽明学派の人たちとどう違っていたか。あるいは、独立学者はどんなものだったか、そういうことは知っていましたが、「こんにちは」は知りませんでした。その学校に入って11カ月で日本語を覚えました。そのときの常識では、まず外国で日本語を覚えることは不可能だということがありました。もう1つは、仮に外国で、あるいは日本で勉強しても数年間かかるということでしたが、私たちは11カ月で一応覚えました。

何ができたかというと、終わってから字引を使いながら新聞、雑誌、命令など、そういうものも読めました。当時の日本語は文語体だけだったので、文語体を習ったので、私は文語体も読めました。少しくらいでしたが、私たちは行書と草書の練習をさせられました。それも非常に大切でした。とにかく、私がその学校で日本語を覚えたために、私は総代として30分の講演を日本語でしました。それは11ヶ月前には絶対できないことでしたから、何か覚えたという快感がありました。

戦時中、私はまずハワイに派遣されました。真珠湾に海軍の事務所がありまして、そこで戦場で拾われた日本軍が残したあらゆる書類の翻訳をやっていました。多くの書類は実に無味乾燥のものでした。本当につまらないものでした。いくら一生懸命訳しても、役に立つものだと絶対思えないものばかりでした。私はそういう翻訳をすることにうんざりしていましたが、ある日、ほかに何もないかと調べたら、日本の軍人がつけていた日記を見つけました。そういう日記は、他の人は皆敬遠していました。なぜなら、日記の大きな箱からは悪い臭いがしていたからです。あとでわかりましたが、その悪い臭いは血痕の臭いでした。つまり、その日記は戦死した兵隊の身体からとったもの、あるいは海で拾われたもの、そういうものばかりでした。しかし、私には非常に面白い勉強でした。私はそのときから日本の日記に特別な関心を持つようになりました。

戦時中一度だけ角田先生にお目にかかることがありました。翌年、1943年に私と私の親友のオーティス・ケーリ君2人が海軍の通訳として北太平洋のアジトの作戦に参加しました。私たちは大体毎日24時間一緒でした。非常に忙しかったです。ケーリ君は小樽生まれで、日本語は日本人と変わらなかったです。私は話すことはそれほど上手ではありませんでしたが、ケーリ君より文字が読めたので、2人の力を合わせて大体間に合いました。アジトの作戦が終わってから、私たちには1週間の休暇がありました。そしてニューヨークまで行きました。ケーリ君は許婚の人に会いましたが、私はどうしても角田先生に会いたかったのです。ケーリ君にその話をして、彼も一緒に会いました。場所は、当時ニューヨークにあったたった1つの日本料理屋でした。今は500軒ありますが、当時は1軒しかありませでした。そして角田先生と食事をしました。楽しい話でした。私は角田先生のことを心配していましたが、大丈夫です、何も悪いことはないと、私も安心させました。食事の終わりごろに、ケーリ君が少し席を外しました。たぶんお手洗いだろうと思いましたが、戻ってきました。しばらくしてから、角田先生も同じようにどこかに行きました。戻ってきて、英語でYou have done a bad thing.と言いました。悪いことをした、と言いました。ケーリ君は日本生まれで日本で育ったので、彼は先に勘定を払いました。角田先生が払おうと思っていましたが、ケーリ君は悪いことをして先に払いました。


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