「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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角田先生と私(1) 010203040506070809
ドナルド・キーン コロンビア大学名誉教授

宗像和重(早稲田大学図書館副館長):それでは、午前の部の基調講演の締め括りとして、コロンビア大学名誉教授ドナルド・キーン先生にお話をいただきます。キーン先生は改めてご紹介するまでもなく、日本文学、あるいは日本文化研究の世界的な権威として著名な方です。1998年には早稲田大学からも名誉博士号を授与されておられます。コロンビア大学で角田柳作の教えを受け、最近の自伝的なご著書『私と二十世紀のクロニクル』の中でもその思い出に触れておられます。本日は「角田先生と私」と題してお話をいただきます。キーン先生、どうぞよろしくお願いします。

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ドナルド・キーンコロンビア大学名誉教授1941年(昭和16年)、コロンビア大学の学部学生だった私は、図書館で中国語の本を勉強していたところ、まったく知らない男が近寄ってきて、自己紹介してから、今晩一緒にご飯を食べないか、と誘いました。当時の私はお金の余裕がまったくありませんでしたから、ためらいましたが、翌日食べなくてもいいだろうと思って招待に応じました。この新しい友人は、合計15年くらい日本と台湾で英語を教えたことがありましたが、一応日本語の会話はできても、全然読めませんでした。その年の夏、台湾で教えた日系人がアメリカに帰ったので、彼を家庭教師として雇って、日本語の勉強をしたいと思っていたのです。場所は南部の山にある彼が持っている彼の山荘でした。しかし、1人で勉強したらきっと天気のいい日にさぼるだろうと思っていましたから、数人を募って一緒に勉強したらお互いに刺激もするし、競争の気持ちもあるから、一番勉強にいいだろうと思いました。そして私に、一緒に行かないか、と誘いました。私はまたためらいました。中国人の友だちがいまして、彼を喜ばせるために中国語を勉強していました。ところが、当時は日本と中国は戦争をしていました。私の友人も非常に反日的でした。それで、もし私が日本語を勉強したとすれば、きっと友だちは嫌な気持ちになるだろうと思いました。随分心配しましたが、夏の間暑いニューヨークから逃げて涼しい山の中で2カ月過ごすことは大変魅力的で、日本語を勉強することにしました。

日本語の家庭教師は大変良い人でしたが、教えた経験がまったくありませんでした。日本語の難しさを説明できないものと思っていました。私たちが教科書として使ったのは、日本の小学生たちが使っていた「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」という有名な教科書でした。私のほかに2人の教え子がいました。1人は持ち主、私は良く知りませんでしたが、もう1人の彼はフランスからアメリカに逃げてきました。つまり、ドイツによる占領があって、彼は怖くなってアメリカに逃げたのです。そういう3人の外国人と1人の日本人が日本語を勉強していました。

ほかの2人は日本語の会話ができましたが、漢字を知りませんでした。私は漢字を知っていました。中国語で覚えたので読めましたが、日本語の会話はまったくできませんでした。一番簡単なことも言えませんでした。能率的な学校ではありませんでしたが、秋となって新学期が始まりましたが、私はコロンビア大学日本語科の2年生になりました。つまり、私は山の中で「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」という教科書を読んだことだけで2年生になりました。ということで、当時の日本語の教え方のレベルがわかります。低かったのです。ほかの学生は日本へ行ったことがある金持ちのおばあさん、あるいは日本食が好きな人、もう1人は日本語そのものに興味がなくても日本人が書いた中国文学についての研究を読みたかった人、そういう学生でした。先生はとても良い人でしたが、まったくダメでした。あれほど悪い先生に恵まれたことはないです。


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