「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
HOME
あいさつ
開催報告
プログラム
フォトギャラリー
リンク
お問い合わせ
早稲田大学HPへ
角田先生と私(3)010203040506070809
ドナルド・キーン コロンビア大学名誉教授

私はそのときから新世界に入る感じがしました。東洋を新世界というのはおかしいのですが、しかし私の気持ちはそうだったのです。つまり、未知の世界に入って、案内者は角田先生1人だけでしたが、その1人で十分でした。同じ年の12月7日、日本では8日ですが、日本軍が真珠湾とフィリピンを攻撃しました。その日はアメリカでは日曜日で、私はその日、夏の間私に日本語を教えていた日系人と一緒にハイキングに行っていました。ニューヨークに帰ったら…当時は日曜日には夕刊が1つありました。夕刊はあまり売れなかったから、いつもすごい大見出しがありました。今度洪水がニューヨークに来る、今度大きな地震があるなど、そういう大見出しがありましたから、一応売れていました。そのときの大見出しは、日本がハワイとフィリピンを攻撃したと。読んで私は笑いました。またか、と思いました。ところが、家に帰ってラジオを聴いて、日曜日の夕刊は一度だけ事実を伝えたとわかりました。

翌日は授業でしたが、いつもの教室に行ったら先生はいませんでした。私にはどうなったかもちろんわかりませんでしたが、ほかの学生たちといろいろ話していました。皆あらゆる噂の話をしていました。つまり、真珠湾で何隻のアメリカの軍艦が沈没したかなど。皆が特別知識を持っているような顔をしていましたが、私は非常に恐ろしい気がしました。というのは、私は子どもの頃から反戦主義者だったからです。人間のあらゆる行為の中で一番悪いのは戦争することだと。そして、私の生きている間に戦争があろうとは思っていませんでしたが、起こりました。そして、私はこれからどうなるのかと大変心配していました。

私は後で先生が敵性外国人としてニューヨーク湾にある小さな島に留置されたと聞きました。皮肉なことには、あの島が歴史的に有名だったのは、良い面はいつもその島を通してニューヨークに入ったということでした。つまり、門が開くところだったのです。しかし、先生のために門が閉まるのではないかと大変心配していました。先生には後で裁判がありましたし、裁判のときにあまりにもすばらしく話していましたから、裁判所が先生に「あなたは詩人でしょう」と言って、裁判が終わって先生は釈放されました。その後、先生はコロンビア大学に戻って、戦時中もずっと教えておられました。

しかし、先生が釈放されたときにはもう私はいなかったのです。私は海軍の日本語学校があると聞いて、日本語を覚えるためにそこに入学したいと思いました。ワシントンに行って、一種の試験があって入学できると教えられました。変な言い方ですが、私は海軍の日本語学校に入学はしましたが、海軍にはまったく興味はなかったのです。目的は日本語を覚えることでした。その学校では、海軍のことは全然教えませんでした。厳しい授業でした。日曜日以外は毎日4時間の授業があって、1日に読書2時間、会話1時間、書き取り1時間という調子でした。一番難しかったのは、言うまでもなく書き取りでした。自分で文字を見てその意味がわかることはそんなに難しくないですが、自分のほうから対話を書くことは難しいです。特に、当時は略字がありませんでしたから、対話を書くのに少し時間がかかりました。海軍のことは全然教えられませんでした。それは、海軍にはほかに非常に頭の良い将校がいたでしょうが、海軍のことを知らなくても日本語の通訳は翻訳できるだろうという判断でした。


前のページに戻る 010203040506070809 前のページに戻る


プログラムへ戻る --- Pagetop