角田柳作WEB展 日米の架け橋となった"Sensei"
 
開催にあたって Greetings”
角田柳作の生涯 Biographical Sketch
メッセージ Messages
年譜
角田柳作著作リスト
協力者
1909-1917 ハワイ (Hawaii)
明治42年 (1909) 5月、半年勤務した仙台第一中学を休職して、柳作は単身ハワイに渡った。ホノルルにあるハワイ中学校の校長に就任するためであった。彼は、本派本願寺系の学校で日本人移民の子弟教育拡充と、仏教や報徳思想の普及にたずさわる。
 
In May 1909 (Meiji 42), after working for six months at Sendai First Middle School, Miyagi Prefecture, Ryūsaku took a leave of absence and moved alone to Hawaii. There he took a position as principal of the Hawaii Middle School in Honolulu. He was involved in activities at the Honganji mission school to improve the education for children of Japanese immigrants and to promote Buddhism and hōtoku thought of Ninomiya Sontoku.
 
 
 
 

米国布哇加奈陀行定期船発着表 明治42年(1909)1月
Ship schedule to Hawaii & Canada, 1909

 
仙台を離れた柳作は、その年の5月、ハワイへと旅立つ。当時、日本 (横浜) からハワイへは定期船が就航しており、これはその発着表である。10日間、ハワイへと向かう船上で彼は何を思っていたのであろうか。[角田修氏蔵]
 
 
 
 

ハワイ中学校長時代 明治43年(1910)頃
Hawaii Junior High School, about 1910

 
ハワイ中学校長となった柳作は、教員の充実や学科の改正に積極的に取り組んでゆく。写真中央で足を組み正面を見据えたその姿には、校長としての強い意志がうかがえる。[角田修家文書 (群馬県立文書館寄託)]
 
 
 
 

ハワイ中学の教員たちと
With his colleagues in Hawaii

 
前列の右から4人目が柳作。[角田昭氏蔵]
 
 
 
 

ハワイ時代の柳作
Ryūsaku in Hawaii

 
撮影時期は不明だが、柳作の風貌からハワイ時代のものと思われる。左下に「Tsunoda」の署名がある。[角田修家文書 (群馬県立文書館寄託)]
 
 
 
 

大正5年(1916)5、8月 布哇仏教青年会
Doho (Magazine for young buddhists in Hawaii), 1916

 
ハワイにおける本派本願寺 (浄土真宗西本願寺派) の指導者である今村恵猛 (いまむら えみょう) のもと、柳作は中学校長としてだけではなく、仏教青年会の顧問という形で日本人移民の青年たちを教導する仕事にも携わって、文筆をふるった。[角田修氏蔵]