角田柳作WEB展 日米の架け橋となった"Sensei"
 
開催にあたって Greetings”
角田柳作の生涯 Biographical Sketch
メッセージ Messages
年譜
角田柳作著作リスト
協力者
1917-1931 デンバー、ニューヨーク (Denver and New York)
大正6年(1917)3月、柳作はサンフランシスコに上陸した。彼は40歳になっていたが、アメリカニズムを求めてコロンビア大学で学ぶ。半年ほど、コロラド州デンバーにいた以外はニューヨークで活動した。日米の架け橋となるための活動がスタートする。
 
In March 1917 (Taishō 6), Ryūsaku landed in San Francisco. He was already forty years old, but with his interest in "Americanism," he decided to study at Columbia University. Other than the half year in Denver, Colorado, he spent all his years in America in New York, where he started playing a role as a bridge between Japan and the United States.
 
 
 
 

角田柳作一家 (大正12年 ニューヨークにて)
Ryūsaku's family, 1923

 
大正8年 (1919) からニューヨーク日本人会の仕事をしていた柳作は、アメリカの中心地で、しかも人種のるつぼであるニューヨーク生活の基盤をつくりあげることができたので、ハワイに残してきた妻をはじめ家族を呼びよせた。[星野冨士子氏蔵]
 
 
 
 

角田柳作肖像写真 昭和5年(1930)
Portrait, 1930

 
柳作53歳の写真。アメリカで、本格的に日本研究の拠点作りに励んでいた時期である。写真に添えられた五言詩は「東西南北人 一処住不断 家国風色好 高山接白雲 昭和庚午 坡土遜柳生」とある。「坡土遜」とは、大好きであったハドソン川にちなむ柳作の号。[角田修家文書 (群馬県立文書館寄託)]
 
 
 
 

NY日本人会記念パーティ
Japanese American Association of New York, 1960

 
「ニューヨーク日本人会」の日米修好100年を祝う会の記念写真。1960年5月21日「エジソン・ホテル」で行われたもの。1920年代にニューヨーク日本人会幹事 (書記長) を務めていた柳作の姿が見える (11番テーブル)。[コロンビア大学蔵]