角田柳作WEB展 日米の架け橋となった"Sensei"
 
開催にあたって Greetings”
角田柳作の生涯 Biographical Sketch
メッセージ Messages
年譜
角田柳作著作リスト
協力者
1877-1893 群馬 (Gunma)
角田柳作は明治10年 (1877)、群馬県津久田村 (現在の渋川市赤城町) に生まれた。生家は農業のほか、林業、養蚕業、商店も兼営していた。成績のよかった柳作少年は13歳で、兄の勧めにより前橋市の群馬県尋常中学校 (群馬県立前橋高校) に進んだ。
 
Tsunoda Ryūsaku was born in the village of Tsukuda in Gunma Prefecture (the present Akagi-machi, Shibukawa-shi) in 1877 (Meiji 10). His family businesses included a shop as well as agriculture, forestry, and sericulture. Ryūsaku did well in school, so at his older brother’s suggestion, he entered Jinjō Middle School, Gunma Prefecture (the present Maebashi High School, Gunma Prefecture).
 
 
 
 

角田家家産形成関係資料
Documents of the Tsunoda family

 
柳作の生家は、江戸時代から農業のほか、養蚕や林業等で栄え、多くの田畑、山林を所有していた。これらはそうした角田家の家産形成にかかわる当時の資料。[角田修家文書 (群馬県立文書館寄託)]
 
 
 
 

角田柳作中学時代ノート
Ryūsaku's notebooks in middle school

 
中学に進学した柳作は、懸命に学業に励んだ。中でも英語が好きだったようで、ノートや教科書には住所や名前を英語で書きこんでいるが、その姿は新しい文化に触れたことへの喜びに溢れている。[角田修氏蔵]
 
 
 
 

角田保太郎
Ryūsaku's older brother, Yasutarō

 
柳作の兄保太郎は、早くに父を亡くした柳作を物心両面から支えた。少年時代、学業成績のよかった柳作を前橋、そして東京へと送り出してくれたのも兄、保太郎の弟を思う気持ちからだった。[角田修氏蔵]
 
 
 
 

群馬県尋常中学校退学聞届書 明治26年(1893)10月27日
Permission for Ryūsaku to withdraw from the Jinjō Middle School, Gunma, 1893

 
退学届を提出した柳作に対し、学校側はその申し出を受入れた。退学に至る経緯は不明な点があるが、何らかの学校側への不満から彼が学生の中心となって学校側と対立した結果と思われる。[角田修氏蔵]