「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
HOME
あいさつ
開催報告
プログラム
フォトギャラリー
リンク
お問い合わせ
早稲田大学HPへ
アメリカにおける日本学の形成と角田柳作(7)010203040506070809
和田敦彦 早稲田大学教育・総合科学学術院准教授

この頃のコロンビア大学ではすでに日本語コースが3コース展開されていたわけですが、必ずしも当時日本学が盛んであるということではありませんでした。ただ、これに対してやはり日本学のスタッフをこれからどんどん充実させていくと。また司書を雇ってきちんとした日本語図書を置いて、これから盛んに日本学を立ち上げていく構想を見せるわけです。これはコロンビア大学側が計画して提示した文書になります。コンフィデンシャルとなっていますが、当時はJapanese Culture Center at Columbia Universityというところで、つまりコロンビア大学にJapanese Culture Centerを移してくることによって、どのような形で今後日本学を展開していくのかということを積極的に計画として打ち立てた文書です。ですから、それまで必ずしも多くの講義や授業が展開されていたというわけではないのですが、この蔵書獲得をきっかけとして、あるいはそれを手に入れるためにコロンビア大学はこういった日本学に関しての積極的なプランを立てていくことになります。

その結果、1931年にこの寄贈が合意を見ることになります。寄贈の条件の中には、日本語、日本学コースを充実させていくこと、あるいは日本語図書館の管理・運営にも責任をもって大学側が取り組んでいくこと、また角田柳作を学芸員(キュレーター)としてコロンビア大学が採用すること、もしも可能であれば角田自身が日本学分野の教育も担当してほしいということもまた盛り込まれています。ですから1931年という年には、コロンビア大学は日本語図書コレクションと角田柳作、両者を同時に受け入れることが可能になったということになります。

その後、日本語図書館に対して専門の司書が雇われ、なおかつ図書館ももう少しきちんとした場所に移されていくわけです。日本美術関係のハロルド・ヘンダーソンが日本史のヒュー・ボートンといった日本学領域の教員を充実させていくことになっていきます。ですから、角田柳作と彼が集めるよう力を尽くした日本語図書は、まさしくこの大学の日本学を展開する上での起爆剤のような役割を果たしたということが言えるかと思います。

では、その後一体どういうことになっていくのかという話です。3番目に「開戦と文化交流の間で」ということを挙げておきました。角田柳作による日本語図書館構想と、その図書収集、コロンビア大学への移管の流れを駆け足でたどってきたわけですが、これまでの説明からも、この一連の活動が、先にお話した3つの要素、つまりアメリカにおける地域や民間での支援、あるいは日本国内、米国内での人的ネットワークの活用、またこの2つを結びつけていく架け橋となる人物、キーパーソン、こういう点で、ハワイ大学やイエール大学とも共通している点が見えてくると思います。

ただ、30年代に入ってくると状況が大きく変わってきます。一言で言うと海外に日本語図書館を作るという活動が、それまでは地域や民間から生まれていたわけなのですが、30年代になってくると、これが日本の国家政策と重なり合ってくるわけです。先ほど申し上げましたが、角田柳作の構想に始まった日米文化学会、つまりJapanese Culture Centerというのは、日本についての情報を提供する独立した研究や調査機関をアメリカに作ろうとしたわけなのですが、結局ニューヨークでは作ることができなかったわけです。独立して運営していくだけの資金の見通しが立たなかった。ところが、このニューヨークのド真ん中、しかもロックフェラーセンターの中にまさしくそのような日本情報を提供して、日本についての学術書を集めて様々な会議や展示を行っていく施設が1930年代になるとできあがっていくのです。


前のページに戻る 010203040506070809 前のページに戻る


プログラムへ戻る --- Pagetop