「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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角田柳作の人と生涯(5) 010203040506
内海孝 東京外国語大学教授

そうした失意のうちにあるときに、ハワイの中学校の校長の話が来たようです。これについては、まだはっきりとした根拠はわかっていません。しかしながら、私は次のように考えています。京都に行っているときの元同僚に当時絵画の先生だった甲斐駒蔵という方とその奥様甲斐和里子さんがいました。お2人は、現在の京都女子大学を作った人たちだったのですが、角田はその前身にあたる文中園という浄土真宗系の女学校の初発からボランティアで手伝います。そういった背景があって、ハワイにあった、これも同じく真宗系のハワイ中学校長の話が来たのではないでしょうか。このハワイ中学校というのは海外で最初にできた中等学校です。これはハワイの日本人移民の子弟に対する中等教育機関です。ところが校長先生は宗教の資格を持っている人で、教員免許を持っている人ではなかったということで文部省の指導が入ったようで、やはりきちんとした日本での教員資格を持った人を就任させるべきだという話があったとみえて、失意の角田にその話が伝わったと考えていいのだろうと思います。その中でやはり彼自身、このまま日本に留まるべきか、その話を受けるべきか、かなり迷ったはずです。迷った結果が、これも調べて初めてわかったことなのですが、彼は休職という形でハワイに行きます。退職しなくて、休職です。つまりハワイに赴任しても、もし何かあったときに戻ってこられる態勢を維持していたと考えていいと思います。

ところが、ハワイに行って、恐らくそこでまったく新しい世界を見て、やはりなんとかしなければいけないということになって、一時病気で帰国することになるのですが、再びハワイに帰っていくという行程を見ていくと、やはりここでほぼ自分はアメリカで自分の人生を賭けてみようという選択をしたのではないかと思われます。最後、1964年に角田柳作は病気で日本に一時的に帰ってきたいということで帰ってきたのですが、最終的にはホノルルで亡くなってしまったということで、非常に因縁じみた縁を感じる地です。

彼はその地で自分の将来的なテーマを見つけるのです。そのテーマはアメリカナイゼーションであり、同時にアメリカで日本を紹介するような図書館を作りたいという、それは恐らくニューヨークに行ってから考えると思うのですが、少なくとも将来的なテーマをハワイの地で見つけたのだと考えていいと思います。ですから、彼自身、最初からアメリカで活躍しようと思ったのではなくて、その時々の何かあったときに決断を迫られて、いくつかの選択肢の中で選んだ結果なのだと言えるでしょう。


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