「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
HOME
あいさつ
開催報告
プログラム
フォトギャラリー
リンク
お問い合わせ
早稲田大学HPへ
角田柳作の人と生涯(4) 010203040506
内海孝 東京外国語大学教授

その後、京都の学校を辞めて福島の中学校、年表に出てきますが、明治36年(1903年)に福島県の一番のエリート校である中学校の先生になります。なぜ行ったのか。恐らく沢柳政太郎が関わっていたのではないかと考えていいと思いますが、とりあえず当時の東京専門学校卒業生が一番望んでいたと思われる旧制中学の先生になることができたわけです。そこで彼は英語と修身の科目を担当するのですが、そのときの身分は正式な教諭ではなく、教諭心得という形になります。それは旧制中学校の免許状を持っていないからです。しかしながら、教諭という身分の人よりも高い55円という給料をもらうという形で教員生活をしていました。そういった中で彼は、年譜にありますように、明治39年(1906年)の12月に文部省の修身の検定試験を受けて修身の教員免許状をもらうことができました。このことによってその翌年、教諭という形で正式に旧制中学の先生になりました。そういった意味ではきちんとしたステイタスを手に入れることができたのです。

ところが、ここが問題なわけです。彼は英語と修身の科目を担当していたわけですが、なぜ英語の教員免許を取らなかったのか。なぜ修身を取ったかということです。実は、ここにその後の彼について考察する1つの大きなポイントがあると思っています。それは僕の見るところ、つまり英語の教師だと、校長にはなれるかもしれないけど、確実になれる可能性があるわけではない。修身なら確実になれると考えたのではないでしょうか。つまり、角田は福島の中学校に赴任して、そこで修身科の教員免許を取ったというところで、恐らく教頭、校長という自分の姿を、ある程度自分はそこでいいという未来像を思い描いたと考えていただいて結構だと思います。それはパンフレットの中にもありますが、福島時代の記念撮影の写真でのポーズが極めて自信に溢れる姿で写っているのは、そういった背景があったと考えていいだろうと思います。

ところが、そういった彼自身の未来像、つまり旧制中学校の校長という未来像は、ある出来事によって頓挫するように思われます。それは年譜の明治41年(1908年)9月13日、後の大正天皇である当時の皇太子が福島県域を行啓したときのことです。教育機関としては最高のレベルである福島中学校にも皇太子が訪れて授業を参観することになります。その参観する1つの科目として角田柳作の英語の授業を皇太子が見ることになります。ところが、予定時間をオーバーして、皇太子が見なければいけないそのほかの科目がどうも見られなかったようですが、その見てもらえなかったクラスの学生の1人がそれを不満に思って、本来ならば皇太子が帰るときも見送らなければいけないはずだったのですが、それも見送らず、不満を言ったのかどうか、帰ってしまったのか、それは資料が残っていないのでわかりませんが、とにかくそういうことでその学生を処分することが職員会議で判断が下されたようなのですが、その判断に対して角田柳作は異を唱えたようです。これもはっきりした証拠は残っていません。しかしながら、その年譜にも書いておきましたが、その直後に仙台で一番良い学校である仙台第一中学校に転任させる命令が来ます。つまり、これは形の上では栄転なのです。東北地域では宮城県が中心ですから、当然中学校も福島中学よりも仙台一中のほうがランクは上ですので、形の上では栄転です。しかし、左遷です。つまり彼が思い描いていた旧制中学の校長像まで、という未来像に傷がついてしまったと考えたのではないかと思います。そういう形で、彼は仙台に行ってからは父親が亡くなって以来の落胆の日々を過ごしたということを当時語っています。非常にショックだったはずです。


前のページに戻る 010203040506 前のページに戻る


プログラムへ戻る --- Pagetop