「早稲田大学創立125周年記念シンポジウム:角田柳作—日米の架け橋となった“Sensei”—」開催報告
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角田柳作の人と生涯(1) 010203040506
内海孝 東京外国語大学教授

宗像和重(早稲田大学図書館副館長):本日の会は、株式会社サイマル・インターナショナルのご協賛をいただきまして、日英同時通訳がついています。午前の基調講演は日本語で行われ、午後のビデオ録画によるインタビュー及びシンポジウムは英語が使用されることもあります。必要に応じてお手元のイヤフォンをご利用くださいますようにお願いします。それでは午前の部の基調講演に入りたいと思います。本日ご講演いただく3人の方々はいずれも午後のシンポジウムにも登壇されます。その際、会場の皆様からのご意見、ご質問も頂戴したいと思っていますので、この午前の講演では特に質問の時間は設けません。その点をご了承いただきますようお願いします。また、お手元のパンフレットにご質問、ご感想の用紙を挟みこんでいますので、ご記入いただいて受付にお渡しいただけましたら、午後のシンポジウムの参考にさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

最初に内海孝先生にお話をいただきます。内海先生は、東京外国語大学教授で、日本近代史のご専攻です。明治のお雇い外国人の研究などとともに、長年にわたり角田柳作の研究に従事してこられました。本日は、「角田柳作の人と生涯」と題してお話をいただきます。内海先生、どうぞよろしくお願いします。

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内海孝 東京外国語大学教授こんにちは。30分でその人の人生を話すのはとても無理ですので、むしろ角田柳作がなぜニューヨークで活動するようになったか。その原因になったところを少しお話ししてみたいと思っています。お手元に柳作展のパンフレットがありますが、その最後、20ページから21ページにかけて年譜を作っておきましたので、できればこれをご参照しながら、私があまり言わなくても済むものは言わないでいたいと。角田柳作はなぜアメリカに行くようになったのか。様々な問題が起きたときに、そうした局面にあたって決断をしなければいけない。角田が決断していく過程をお話しすることで生涯を展望してみたいと思っています。

角田柳作が生まれた群馬県は、基本的には江戸時代からの養蚕地帯の一角を占めていました。特に彼が住んでいた勢多郡は、養蚕の盛んな地域で、また蚕種の製造も大変盛んな区域としてあったことをまず押さえておきたいと思います。彼に大きな転機が訪れるのは…父が小さいときに亡くなってしまい、それですぐ上の兄が彼の父親代わりをするわけです。まず1つの大きな転機というのは、兄が彼を旧制中学校に行かせてくれたことです。実は今回展示の準備をする中であらためて資料を点検していったのですが、旧制中学、この場合は現在の前橋高校の前身ですが、群馬の尋常中学校の受験科目に英語があったのです。彼がわざわざ自宅を離れて富岡の自分の村の出身の小学校の先生のところに寄宿しながら受験勉強をしたのは、英語を学ぶことが目的ではなかったのかということが考えられるのです。まず、彼が受験しなければいけない中学校の受験科目にたまたま英語があった。やはりそこで一生懸命彼は勉強したと思うのですが、そのことが、その後の彼の人生に大きな影響を与えていったことは事実です。しかし、それがすぐにアメリカにつながるということではなかったと思います。
少なくとも中学を受験しなければいけないところにおいて、彼は英語の勉強をしましたが、たまたまそれは非常に彼の肌に合っていたことかもしれません。


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