50 Primary Sources

15.出雲国宣 1通 文庫12 38(1)
建武元年(1334)12月8日 佐草文書

手継文書といわれる所領相伝に関する一連の文書の中の一通。出雲国内の土地に関する地頭職をめぐる係争に関する国司の判断を記したもの。後醍醐天皇による建武政権下の国宣の類例として貴重。

16.後醍醐天皇綸旨 1通  文庫12 209(1)
建武2年(1335)6月27日

綸旨は蔵人が天皇の意を奉じて発給する文書で、「天気如件」などの独特な言い回しが使われ、料紙にも宿紙と呼ばれる漉返しの紙を用いることが特徴である。本文書はいわゆる建武新政期の混乱を背景としたもので、宛名の右兵衛督・西園寺公重に対し、家督相続を認めるという内容である。

17.光厳院院宣 1軸 文庫12 126
建武3年(1336)9月17日

摂津国の採銅所における、資世という人物の濫妨を止めるよう命じた院宣。摂津国採銅所は本来朝廷に銅を貢進するために設置されたが、のち私領化してゆく。ただ、所司の任免等は院宣によっていた。

18.足利直義下知状 1通 リ5 15596
貞和元年(1345)12月17日

室町幕府の草創期、足利尊氏・直義兄弟による二頭政治が行われていた時代、訴訟や裁決を担当した直義の名で発せられた典型的な下知状である。美作国(岡山県)にあった尊勝寺法華堂領の荘園について、未納分の年貢の弁済を決したもの。

19.足利尊氏禁制 1軸 文庫12 128
観応3年(1352)6月24日

訴訟・裁決を担当した直義に対し、尊氏は武士たち全体の支配・統制にあたった。本文書は相模国(神奈川県)覚園寺の上総国(千葉県)にある荘園に対して発せられた禁制。文書の右端(袖)に尊氏の花押が据えられている(袖判)。

20.楠木正儀施行状 1軸 文庫12 130
正平23年(1368)12月9日

東寺造営に使用する材木を運搬する船が、滞りなく通行できるよう下知したもの。楠木正儀は正成の子で、正行、正時が戦死したあとの楠木家を継いだ南朝の武将。北朝方との和平工作を進めたことでも有名である。

21.崇光上皇宸筆願文 重要文化財 1巻 文庫12 44
永和2年(1376)11月11日

南北朝の動乱期に北朝方の天皇として貞和4年(1348)から観応2年(1351)まで在位した崇光天皇が退位後伊勢神宮に宛てた祈願状。「仏舎利一粒」を奉納して立願した内容は、文中に「身内之極秘」とあるように私事にわたることかと推測され、詳細は不明である。昭和53年(1978)、重要文化財指定。

22.今川了俊遵行状 文庫12 131
永和3年(1377)3月20日

備後国長和荘等をめぐり、地頭職である長井能里からの訴えをうけ、守護である今川了俊(1325〜1420)が将軍家の御教書に従って他の侵略を認めない旨を守護代にあて命じたもの。遵行状は幕府の命を受けた守護がそれを実務に携わる守護代に下達する文書。了俊は当時九州探題であったため、備後には不在であった。

23.番匠木屋掟 拓本 1軸  イ4 3153 B282
春屋妙葩  永徳4年(1384)正月11日 京都市右京区 天龍寺

花押から春屋妙葩(1311-1388)によるものとわかる。妙葩は将軍義満の帰依をうけ、康暦元年(天授5・1379)初代の僧録に任じられ禅僧を統括する立場となった。拓本の内容は、永徳2年(弘和2・1382)からおこなわれた相国寺造営にともない、材木の紛失を防ぐなど、奉行僧の点検を厳しくすることで作業場を取り締まるために発された掟である。

24.大乗院経覚書状 1通 文庫12 52
年月日未詳 興福寺大乗院文書

経覚の2通の書状と尋尊の添書からなる巻子のうちの1通。書状は文安3年(1446)11月の別当坊西院における慈恩会に関する尋尊の質問に対する回答。

25.新薬師寺頼母子文書 1巻 イ4 3153 A12
自享徳3年(1454)8月27日至[寛正3年(1462)]正月

室町時代中期、大和国新薬師寺で開かれていた頼母子講にかかわる文書。冒頭の起請文にはこの講が一口200文を講銭とするなど、講の規約が記されており、続けてその後の講会の結果が記されている。全体は8紙の牛王宝印紙よりなっている。

26.足利成氏感状 1巻 文庫12 41
享徳7年(1458)4月20日

前年の鎰城攻めの際に勲功のあった梅沢太郎に与えた感状。足利成氏(1434−1497)は享徳3年(1454)に管領上杉憲忠を殺し、幕府と対立関係にあった。享徳という年号は実際には4年に康正へと改元されているが、成氏はそれを無視し使用し続けていたことがわかる。

27.山名宗全代官職披露状 1通 イ4 3153 A11
[欠年]8月17日

竹野郷は山名持豊(宗全・1404-1473)が守護職であった但馬国にあり、本文書はその地における代官職を当年について垣屋氏に任せる旨を記したものである。なお、山名持豊が出家し宗全を名乗るのは宝徳2年(1450)からである。文中「於御寺用ハ」との文言があるが、これは但馬国興長寺に対して、15世紀を通じ山名氏によって安堵された土地が竹野郷にあることから、その地域について述べたものと考えられる。

28.武田信賢感状 1通 リ5 15593(1)
応仁元年(1467)7月20日 中村左京亮宛 安芸国中村家文書

応仁元年(1467)7月17日、山城・実相院に拠っていた武田氏が西軍に攻撃された際、その防戦に功があったことに対するもの。本感状により中村氏は応仁の乱に際し、武田信賢のもと東軍として参戦していたことがわかる。

29.伊勢宗瑞判物 1巻 イ4 3153 A13
永正9年(1512)12月4日

伊勢宗瑞こと北条早雲は、この年9月に太田資康を相模国三浦に攻め、敗死させているが、本文書はその戦に関連した武将に対し、所領を知行せしめたものと思われる。散田郷は相模国愛甲郡の鎌倉覚園寺領である。

30.細川高国書状 1通 イ4−3153 A22
[永正17(1520)]2月28日  八条殿関係文書

室町幕府の管領であった細川高国(1484-1531)は、永正17年(1520)2月、細川澄元の軍勢に敗退し近江に逃れるが、同年5月に六角氏らの近江勢とともに京都に攻め上る。本文書はその間のものと思われる。山城での戦いぶりを称し、再起に賭ける意気込みを示している。

31.大内義隆書状 1通 リ5 15595
[欠年]8月26日  三吉安房守宛

大内義隆(1507-1551)は、周防・長門(山口県)など、七国の守護を兼ね、中国地方に広く覇を唱えた戦国大名であり、文化的にも山口を“小京都”として発展させたが、最後は重臣の陶隆房(のち晴賢・1521−1555)に襲われ自害して果てた。本書状は、おそらくは天文11年(1542)の出雲の尼子氏攻めに際してのもので、安芸の毛利元就、石見の福屋隆兼に軍勢上国を命じた旨、備後の三吉安房守致高に告げている。