50 Primary Sources

32.武田信玄判物 1通 文庫12 234
永禄12年(1569)6月12日

信玄が重臣、三枝勘解由左衛門尉守友に与えた代官職任命状。冒頭に「先非を悔いて奉公に勤しみ候」とあることから、これ以前に守友に何らかの過失があったことが推測されるが詳細は不明。

33.上杉氏印集 1軸 イ4 3153 D6
現品:上杉博物館(米沢)所蔵

甲斐武田氏との川中島の戦いで有名な戦国大名、越後上杉氏の印影をまとめたもの。現存する上杉氏の印章のうち、上杉謙信(1530-1578)、景勝(1555-1623)父子の用いた9顆を捺してある。

34.織田信長朱印状 1通 文庫12 236
[天正6年(1578)]正月19日

信長が但馬の山名宮内少輔豊国に宛てたもので、信長所用として有名な「天下布武」の朱印が捺されている。また、「猶宮内卿法印可申候也」との記述から、本文書には信長の側近・松井友閑の添状が付けられていたことがわかり、室町将軍の御内書の形式をとったものだといえる。

35.北条氏伝馬手形 1軸 文庫12 74(1)
天正11年(1583)7月28日

古代の駅制にはじまる伝馬の制度は、戦国時代には、軍事・行政両面の必要性から、各大名がそれぞれ領国内の宿駅に伝馬制をしいた。本文書は北条氏の本拠地・小田原から、徳川領国の最前線である駿河沼津までの宿駅中への伝馬供出を、徳川家の家臣である朝比奈泰勝に命じたもの。

36.成田氏長判物 1巻 イ4 3153 A14
[欠年]6月晦日

成田氏長( -1595)は武蔵国忍城主で、はじめ北条氏にしたがった。本文書はその時期のもので、濃州(=北条氏規)に対する無沙汰を詫びる内容となっている。宛名の「朝兵」は氏規配下の朝比奈兵衛尉と思われる。

37.島津義久書状 1巻 イ4 3153 A16
[天正13年(1585)]12月13日

薩摩の島津義久から、秀吉の関白就任の祝儀として使節を発し生糸を贈る旨、宗易軒、すなわち千利休に報せた書状。これから約1年半後の1587年(天正15)5月、義久は秀吉に屈することになる。

38.立花宗茂印判状 1軸 イ4 3153 A19
[欠年]12月8日

立花宗茂(1569-1642)は、筑前立花城主であったが秀吉の島津氏攻略後、筑後柳川13万石を与えられた。本文書に捺された青小丸印は「fida」と読めるが、これは宗茂が飛騨守であったことによる。

39.蘆名氏宿老連署血判起請文
天正15年(1587)3月5日 文庫12 76(5)

戦国時代、北関東に勢力を張った佐竹義重の子、義広ははじめ白川家の養子となるが、この年蘆名家の婿となった。これをうけ、蘆名家の宿老たちが、義広に子ができた場合の白川家の相続につき遺漏なく取り計らう旨、現当主にあてた起請文。それぞれの名の下には花押にくわえ血判が捺されているのがよくわかる。

40.豊臣秀吉刀狩条書 1巻 文庫12 87
天正16年(1588)7月 日

農民の武装解除を内容とした刀狩令は、太閤検地とならんで豊臣政権のおこなった農村政策の柱であり、兵農分離を確実に前進させるものであった。年貢収入の基盤となる農民を身分的に固定化するこの政策は続く徳川政権ヘも継承され、幕藩体制を支えてゆくことになる。

41.豊臣秀吉海賊法度 1軸 文庫12 142
天正16年(1588)7月8日

天下統一をすすめる秀吉が発した海賊取り締まりの法令。“海の刀狩”として海民の把握・統制、海上交通の安全をはかり、さらには西国大名の財源となっていた海外貿易を自らの掌中に収めようというものであった。

42.豊臣秀吉朱印状 1通 文庫12 88
天正17年(1589)11月24日

全国制覇をめざす秀吉が小田原の北条氏直にあてた、最後通牒。氏直に対し上洛を促し、果たされない場合には攻める旨を告げている。本来なら北条氏直だけに送付されてしかるべき内容だが、実際には同文・同宛の朱印状が、伊達・毛利・上杉家などに伝来している。本文書は毛利家旧蔵のもの。みずからの意志を内外に誇示し、諸大名に対して北条攻めへの出兵を促す意図があったものと思われる。

43.豊臣氏奉行連署奉書 1通 文庫12 102
[欠年]5月12日

豊臣氏の5奉行のうち、浅野長政をのぞく4名の連署で、尾張清洲城主福島正則にあてたもの。元は折紙。洪水による水害対策のため、堤の築造について指示したもの。正則は文禄4年(1595)に清洲城主となり、慶長5年(1600)の関ヶ原戦後に安芸広島城主となっている。

44.加藤清正朝鮮陣書状 1巻 リ5 1559
[文禄3年(1594)]2月21日

豊臣秀吉による朝鮮出兵、いわゆる“文禄・慶長の役”に参陣した加藤清正が、隈本の留守居役にあてた書状。陣中で必要な物資、特に鉄砲とそれに関わる品々の調達を命じるとともに、耕作奨励など後方支援全般について指示を出している。

45.木食応其書状 1軸 イ4 3153 A21
[慶長5年(1600)]3月7日

木食応其(1536-1608)は、高野山の僧侶で、『無言抄』を著した連歌学者として著名だが、その一方で秀吉の庇護のもと高野山の復興に尽力し、また方広寺造営の幹事をつとめるなど、京都をはじめ諸国の寺塔造営に力を注いだ。本文書に「金堂御柱立目出度存候」とあるが、これは『醍醐寺新要録』により秀頼のために建立された同寺金堂であることがわかる。

46.徳川家康直書 付・村越直吉添状 1軸 文庫12 147
[慶長5年(1600)]9月19日

関ヶ原の戦から4日後、家康が田中兵部大輔吉政にあてて発したもので、敵将3人を早急に捕らえるよう命じている。現在1幅に仕立てられた家康の側近・村越直吉の添状によって、この3人が宇喜多秀家・石田三成・島津義弘であることがわかる。この後、吉政は三成を捕らえ、その功績により筑後一国を与えられた。