中国の民間信仰と庶民文芸 Popular literature and folk religion in China

口唱文芸の世界

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さまざまな口唱文芸(俗曲)

中国では、さまざまな楽曲が広く民間に歌われ、演奏された。それらは時代や地域、さらには演じられる場面や使われる楽器などによっていくつにも分類される。中でも明、清時代に盛んで、歌詞や楽譜を記した数丁の小冊子が刊行されたが、いずれも保存が難しい脆弱な作りであったため、今日残るものは少ない。風陵文庫にはそうした「俗曲」に関する資料が豊富に収められている。

弾詞

 明、清両代に流行した曲芸の一種。主に揚州、蘇州、長沙、桂林等南方で流行し、「南詞」ともいわれる。三弦、琵琶あるいは月琴等で弾き語りされる。曲調や唄い方は地方ごとに特徴があり、各地の方言で唄われる。『孝義眞蹟珍珠塔』は、いわゆる才子佳人もので、落魄した名家の秀才が婚約者の援助で状元及第し、華燭を迎えて子孫繁栄する物語であり、宝巻にも改作された。

大鼓書

 大鼓書は、一般には清代初めに山東、河北の農村で形成された曲種と考えられ、北京・天津方面に伝えられ、石派書や京劇の唱法等を取り入れて京韵大鼓に発展したとされる。京韵大鼓のほか楽亭大鼓・奉天大鼓等地方別に数十の曲種があり、また清末北京におこり華北に流行した梅花大鼓(或いは清口大鼓)のように、京韵大鼓の支派として滑稽で諷刺的な内容を演じる滑稽大鼓や、梨花大鼓・鉄板大鼓のように使用される楽器(梨花簡・鴛鴦板)による命名もあり、その名称は非常に多岐にわたる。唱詞はおおむね七言句或いは十言句を基本とし、大鼓と拍板でリズムをとってうたい、三弦・琵琶・四胡等の弦楽器の伴奏をともなう。坤書館・楽子館と呼ばれる寄席で演じられたり「唱大鼓的」が街頭を巡って演じたりした。
 『寡婦自嘆』は、二十歳の寡婦が幼児を抱えて困窮し、そのうえ田畑は夫の兄弟が借りたまま一向返さない、訴訟を起こすのは簡単だがなかなか埒があくまいとて、このまま再婚せずやっていけるのだろうかと嘆く話である。『小倆口爾拜年』はいわゆる呆女婿型の笑話を原型とした滑稽大鼓で、田舎者の新郎が夫婦で妻の里へ年賀に赴いてもてなしをうける話。『紅樓夢段宝玉探病』は、百二十回本の第八十九回前後にもとづくもので、子弟書から出た京韵大鼓である。『黛玉悲秋』の続編であり、従兄・宝玉が病弱な黛玉を見舞う場面である。

子弟書

 清代の曲種。名称は、満州八旗の子弟が主体となってつくりだしたことに由来する。乾隆の初年頃、北京で八旗の子弟が軍隊ではやった曲調をもとにして、民間の演唱や曲調を参考につくりあげたといわれ、北京を中心として東北地区で流行した。曲芸唱本中では格調が高いとされる。『螃蟹段』は、その名残をとどめ、満文と併記された珍しいものである。子弟書には東城調と西城調の二派があり、それぞれ韓小窗と羅松窗をもってその代表とし、七言八句を基本とし大部の作品は回を分かつ。子弟書は、作成過程で大鼓書と相互に影響があったといわれ、両者には共通の曲目が多い。
『刺虎』は、明末李自成に皇城を占拠された時、宮女費貞娥が李自成の弟一隻虎李過を刺殺する物語で、『刺湯』は、嘉靖の頃前宰相莫懐古の愛妾雪艶娘が夫の恨みをはらすべく奸物湯北渓を刺殺する物語である。また『寧武関』は、李自成の乱において果敢に抗戦した明の勇将周遇吉の壮烈な最期を叙したものである。

木魚書

 「摸魚」「木魚歌」あるいは「沐浴歌」とも呼ばれ、広東で流行した。これは、宝巻が広東に伝入して民歌と結合して成った粤語の説唱文芸である。初期には仏徒が木魚を叩いて仏教の故事を演唱することを俗に「唱木魚」と称し、また乾隆・嘉慶の頃には凡そ詩贊体の説唱を「木魚」と称したといわれ、後に民間伝説・故事の曲目が出現したものと考えられている。現在「木魚書」といわれているものには、表題等に「南音」(「木魚」「龍舟」を基礎として楊州弾詞等の曲種の音楽を吸収してできたものと推定される)と冠するものが見うけられるが、「木魚」とするものはまれであり、また、表演の伝統が途切れたものらしく、その実体は不明である。『天賜花裙』は、元の明宗の皇后劉氏が陸妃の謀略に陥るが、太子がその冤罪を晴らし、女真の公主皇娥と結婚して大団円を迎える話である。

牌子曲

 「雑牌子」ともいわれ、様々な曲牌の小曲を合わせた形式で、三弦の伴奏で演じられる。『烟酒謗勧』は戒烟戒酒(烟はアヘンのこと)を勧めたもので、烟友(アヘン中毒)と酔鬼(アルコール中毒)が語り合う筋で、烟酒を断って百年長寿を得るというものである。

石派書

 咸豐・同治年間、子弟書の説唱を生業として盛名であった石玉崑(生卒年不詳)の一派の説唱書詞で、「石韻書」とも呼ばれた。光緒の初年に相次いで刊行されたといわれており、『青石山』はかなり早い時期の伝鈔本と思われる。内容的には青石山に棲む九尾の狐が美女に変じて書生を魅惑するため、王道士次いで呂洞賓が退治しようとするがかなわず、最後には関帝が関平・周倉を遣わして妖狐を降すというものである。

岔曲

 乾隆年間、北京の曲芸班社(曲芸団)の芸人たちの間で流行した俗曲で、現代でも歌われている。女性の第一人称で恋愛を語る曲が多く、女性のソロやデュエットで歌われることがあった。多種多様な曲調が伝えられており、その多くは清代、八旗の子弟によって作詞されたものである。現代では単弦の演奏者が演目に入る前、オープニングとして歌ったりする。岔曲には長岔(趕板或いは趕座)と小岔(脆岔或いは小八句岔曲)とがある。三段からなり、第二段の段末の字と第三段の首字とに同じ文字を重ねる。『新出趕板桃園結義』は『三国演義』をもとにしている。

時調小曲

 明末から清代にかけて江浙・湖広及び山東・山西方面の民歌が北京に伝えられ発展したものといわれ、曲調としては四季調・五更調・嘆十声・十盃酒・十二月調等いわゆる数えうたの類いが多い。このうち「嘆十声」は清末から民国にかけて流行した曲調で、三・三・四の十文字を基本とし、頭声(第一声)より順次慨嘆すべき事項を連ねるものである。『烟花女子自嘆嘆十声』は、家が貧しいばかりに烟花(花柳界)に身を沈めた妓女が我が身の不運を嘆くものである。また「四季調」は季節の順を逐ってうたうもので、『四季從良後悔』は、妓女が春に晴れて堅気になったが、嫁いだ相手はろくでなしで、冬には一文無しになって門外には借金とりの声がするという嘆きぶしである。

謎語

 事物や詩句・成語等を当てさせる、いわゆるなぞなぞで、特に文字を当てるものを「字謎」という。その起源は定かではないが、宋代開封・杭州等の瓦市(盛り場)には、なぞなぞを業とした芸人も存在したといわれる。また清代には、元宵節(正月十五日)等の晩に「燈謎」(燈籠や提灯になぞの文句を書きつけておき、これを解いた者が答えを貼りつける遊び)も流行した。『新刻燈虎』の題名はこれに因むもので、「虎」は「糊」(あいまい)に通じる。収録されている「字謎」の例で言うと、“一家五個人 日日長伴神 二人坐長工 三口著雨淋”(家族は五人 いつも神さまにお伴してる 二人はいつも工に腰掛け 三人雨でびしょぬれ)という押韻した五言四句の謎が意味するところの一文字は、「霊(靈)」となる。

蓮花落

 「蓮花楽」「蓮花閙」或いは「落子」ともいい、元来物乞いのうたった曲種。後に芸人により春節等に門付で演唱された。嘉慶年間には戯園でも演じられるようになり、歌と道化が組み合わされ鑼鼓・竹板・節子等の拍子に合わせて演じられ、「什不閑」と融合し「彩扮蓮花落」と呼ばれるようになった。『摔鏡架』は王二姐が南京に出かけたまま帰らない許婚の張廷秀を思慕する様子をうたったものであり、『十里亭餞別』は『西廂記』をもとにした張君瑞と崔鶯鶯を主人公とする才子佳人ものである。

相聲

 咸豐・同治年間に北京で形成され全国に広まったといわれる、所謂掛け合い漫才である。単口・双口・群口と、1人から3人以上で演じるものがあり、説(語り)、学(まね)、逗(ぼけとつっこみ)、唱(うたい)の要素が織り交ぜられる。『相聲繞口令』は早口ことば(繞口令)をねたにした漫才である。

雙簧

 咸豐・同治年間に活躍した芸人・黄輔臣により生み出されたとされる曲芸の一種。彼は晩年声が出なくなり歌うことができなくなったが、宮廷では彼を求めて供奉させた。そこで彼は自分の子供を椅子の後ろにしゃがませて歌わせ、自分は前の方で三弦を弾いて歌うまねを演じてみせた。これが雙簧のはじまりと伝えられている。後世においては各人の工夫により話芸や歌唱を取り入れ、特に滑稽な面を強調したことで、雙簧は独自の特徴をもった曲芸となって今日に至っている。典型的なパターンとしては、コンビのうち一人が道化役で前に座り、もう一人はその後ろに身を隠す。後ろの者が話したり歌ったりするのに合わせて、道化役はあたかも自分がしているように口パクをする。複雑な歌や音調が発せられると、道化役はまるでついていけなくなってしまい、観客の爆笑をかう。『雙簧眞詞』には「徐狗子」という名のコンビによると思われる雙簧が掲載されている。