*ここに展示されている資料は、2002年5月に開催された、展覧会「文人たちの手紙――にじみ出る素顔――」に出陳されたものです。

[その2]

 
  
 
7 森鴎外書簡
 
三村竹清宛 大正5年(1916)9月23日 1巻  文庫14 C3
[解説]
大正期の森鴎外(1862-1922)は『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』など、歴史に材をとった長編小説を連載していた。この書簡は鴎外が歴史考証に詳しい三村竹清(1876-1953)に、執筆中の『伊沢蘭軒』について質問をしたもの。
[原文 ]
    (封筒表)赤坂表町三ノ三十三/三村清三郎様
    (封筒裏)団子坂/森林太郎
拝啓御葉書/難有奉存候。/好古小録書入/ノコト、始テ承知/仕候。次ニ寛政/二年云々は何ニ/出居候カ御記憶/ニ候ハヽ御示被下/度候。([えき]斎十六/歳ノヤウ被存候)/小生手元ニテ知/レ居候ハ、文政四/年ノ旅ニ有之候。/再応相願恐入候ヘ共、葉書/ニテナリトモ御返/事被下度候。
二十三日/森林太郎
三村学兄侍史
 

 
  
   
   
 
8 大西祝・松井幾子往復書簡
 
明治26年(1893)8月5、6、7日 3通  ヌ6 9206(A6,7,192) 
[解説]
明治時代の哲学者、大西祝(はじめ、1864-1900)がのち妻となる松井幾子との間で交わした往復書簡。2人は婚約中だけでなく結婚後の祝のドイツ留学中にも多くの手紙を交わし、その数は8年間で200通以上にのぼる。これはそのうち婚約時代のもので、当時まだ一般的ではなかった婚約指環を祝から幾子へ贈る経緯が記されており、互いを思いやるこまやかな愛情が伝わってくる書簡である。
[原文 ]
@大西祝書簡 松井幾子宛 明治二十六年(一八九三)八月五日
今朝は御邪魔仕候。結/納の義につき考へ候処、従来/の慣習の如何に拘らず何か/後々までものこり候ものを、約/束のしるしに、又後来の記念/の為めに差上度存候。之を結/納とも何とも思召被下度候。質/粗を旨と致し候故、右品物の外/には金子は差上申さず候故、/御身よりも袴料などとして/何も御持参無之がよろしと存候。/綱島よりも多分右之通りに申/上ぐべくと存候。品物は紀念の為め/に候へは、何か後にのこるものがよろ/しと存候。西洋風に指環も/よろしからんが、今少し実用に/なるものがよろしくは候ハずや。帯/がよろしく候ハヾ、綱島の細君と御/同道なされて、好きなるもの御/もとめなされ度候。此事既に綱/島の細君には依頼致候処、喜/んで承諾致され候。何にても好/きなるもの御申越被下度候。手紙に/てよろしく何卒御申越被下度候。/御両親様へ此手紙の趣御伝/へ可被下候。用事のみ急き/認め候。
八月五日/祝より
    (包紙表)赤坂区溜池町三番地 松井常松氏御内 松井幾子さま
    (包紙裏)小石川久堅町 七十四番地 大西祝

A松井幾子書簡 大西祝宛 明治二十六年(一八九三)八月六日
昨日は御越し被下喜こばしく存候。/又昨夜御手紙嬉しく拝見致し候。/早速御返事差上申度と存/候へ共、一応父事へ御手紙の趣話し/度と存候処、漸やく今夕横浜/よりもどり候故、御返書延引之段、/悪しからず御思召被下度候。さて/御申越の結納の事につき、母は/片貰ひと申す事は之無く候へは、/たとへ印のみにても、私方よりも差上/申すへき筈にて、御約束にて居るは/少しの間故、御断ハり致し候方、≠オ/からんと申候。されど折角の御好意を/無にするは望ましからぬ事に候へは、/只後々記念となるものを何かいたゞ/き度と存候。帯と仰せられ候へ共、/帯は最早求め候へば入用無之、/且又常々所持致し居るものが/望ましく候。西洋にては指環は/何の為めに贈るものにや存じ申/さず候へ共、私は朝夕たへずながめ/て只今の決心を常に記臆し、いつ迄も/我侭を出し、或は不従順の心を/持つ事なき様心掛くる為め、且又、/形の如き円き家族を作り/得る様、指環が宜しくと存候。/去れど他に実用品にて朝夕/なかめ居らるゝものあらば尚更/≠オくと存候へ共、思ひ当らず/候まゝ指環と申上候。父も指環が/よろしからんと申居候。母は余り勝/手がましき事を申上げぬ様にと/申候へ共、思ひしまゝを此之如く/御返事までと申上候。なほ御目もじ/之節と申残し参らせ候。 かしく
八月六日夜/いくより/最愛の君の御もとへ
    (封筒表)小石川久堅町七十四番地 大西祝様 御親展
    (封筒裏)八月六日夜 赤坂溜池町三番地 松井幾

B大西祝書簡 松井幾子宛 明治二十六年(一八九三)八月七日
御手紙只今拝見、御申越の趣/承知仕候。然れば指環に可致候。/常に身を離さゞる指環がよろし/かるべく候。後々までも紀念と相成、/末久しく円満なる家庭の平/和を保つことを得ば、喜ばしき/限りに存候。片もらひにて心よか/らずと思召候ハヾ、私よりも憚からず/何か紀念と相成候品、可申出候。/私は丁度購求致度存居候/書物有之、それを頂戴致す事/を得バ、甚だ幸に存候。御身より/頂戴致すに恰好と存候書物有之候。/書物は永久に保存致し、又常/に座右に置きて志気を養ひ/申すべく、私に取りては誠に適/当の品と存候。如何思召され候や。/何事も打あけて憚らず申上候。/来十日には何卒御越被下度/御待申しあぐべく候。何れ紀念/の品に就いては又々御面会の上、/細はしく御相談可致候。御面/会の日奉待候。御両親様/へよろしく御伝へ被下度候。/用事のみ。/匆々/八月七日/祝より/こひしき人へ
尚々、今日は曾ても申候通り、/私の此世に生れ候日にて御坐候。
    (封筒表)赤坂溜池町三番地 松井常松氏御内 松井幾子様 御親展
    (封筒裏)小石川久堅町七十四番地 大西祝 八月七日
 

 
 
9 二葉亭四迷書簡
 
渋川玄耳宛 明治40年(1907)10月16日 1軸  文庫14 C140
[解説]
二葉亭四迷(1864-1909)は『平凡』を明治40年10月30日から同12月31日まで「東京朝日新聞」紙上に連載していた。この書簡はその題名について当時の編集担当者であった渋川玄耳(1872-1926)の問いに答えたものである。
[原文 ]
「平凡」
平凡なる作者カ平/凡なる人物を捉まへて/平凡なる作を試む。/題して平凡といふに/何の不思議かあらむ/といふ訳で、これに極め/申候。あとの所ハ何分/よろしく奉願候。草々頓首/四迷/玄耳兄梧下
    (封筒裏)本郷西片町十/長谷川辰之助
    (封筒表)京橋区瀧山町/朝日新聞社/渋川玄耳様
 

 
 
10 尾崎紅葉書簡
 
吉岡書籍店宛 明治22年(1889)8月8日 1軸  文庫14 C78
[解説]
経営不振の雑誌「我楽多文庫」の発行を引き受けるなど、物心両面で尾崎紅葉(1867-1903)を支えた吉岡書籍店主、吉岡哲太郎にあてて、紅葉が送った借金申し込みの手紙。「金十円」に傍点を打った上、(これおどろくまい)とつけ足している。明治22年の時点において、十円がいかに大金であったかわかる。しかも紅葉はこの借金を「書いて返す」といっている。明治文壇の内側をかいまみるような手紙である。
[原文 ]
毎度なから長座致し、御台所の陰言も/如何と大に気つかはしく候。
扨、大坂へ出立の一條、都合ありて来る十日/と相定め、駸々堂よりの為換を待たぬ事/に致し候ニつき、色々算段致し候へども、/思ふ様にいかず、頗る困却いたし候。
明九日夜まで、但しは十日の午前十時/までに金十円(これおどろくまいおどろくまい)拝/借いたし度、何ゆゑ十円ときり出したかと/いふに、五円が大和昭君、あとの五円は……その/五円はな、いづれ何か書いてかへす。
あまり突然なれど、ぜひとも願上候。/此を見しだい御返事相待申候。/まだ書遺の條々あれど、それは出立/日の前までに、くはしく今一通さし上申候。/此は用事までなり。どうにも/して算段してたもれ。
八日/紅葉/吉岡様
  露伴子が、貴店へ其内に参るやもしれず。留守をつかふなかれ。
 

 
 
11 幸田露伴書簡
 
坪内逍遙宛 明治23年(1890)7月 1巻  文庫14 C12
[解説]
明治23年頃、「読売新聞」の主筆は高田早苗、文学主任は坪内逍遥であった。高田・坪内は相談して、当時「紅・露」とならび称された尾崎紅葉・幸田露伴(1867-1947)に新聞小説連載を依頼する。紅葉はこれに応えて名作『伽羅枕』を連載したが、露伴は『ひげ男』という作品を書きはじめたものの中途で挫折した。
この手紙は編集者・逍遥にあてて露伴が小説中断の言い訳にことよせ、小説家の覚悟ということについて述べた長文の手紙であり、露伴研究上きわめて重要なものといえる。
[原文 ]
拝啓
山中ハ涼しくいまた袷を脱せす候へとも、都下炎熱定めしの事と推察/仕り候。然し御尊体別に御かハりも無かるべしと信し、尚祈御多祥居り候。/高田氏首尾よく選挙せられ玉ひし段御たがひに祝着に奉存候。小/生同氏とハ交語の日ハ浅けれども同氏の親切温藉にハ感し居る事少からす、/実に嬉しく存し候に、まして年来の御朋友、貴下の御よろこひも思ハれ申候。得/意の人ハ隣る失意の人とて、小生ハ先々月あたりより何となく悲しく、今に呻/吟ひとり悶え居り候。実ハかゝる空谷の一軒家に独居致し候も、敢て暑気を/恐れてのみにハあらす。見ること聞く事極めて多き東京に居り候てハ、昼間の/一刺激、夜半の心を安からしめずして、大抵碌に休神の清眠をも得難く苦/悩候より、一つハそれをまぬかれん為メ此様の所に立こもり候義にて、内心にハ悪色/を知らさる瞽者、悪声を聞かざる聾者を羨み、見るものも聞くものもなき地へ/行きて、兀然独照致さんと立出て候ひしも一身の影離れ難き如く、尚、毎日いやな心/持にて夢も多く甘からす候。髯男のつゞきも筆を取りさへ致せは議論めかしくばかり/相なり、とても事実を記するの文ハ癇癪にて煩ハしくおぼえ、直ちに一念の乱麻を/たゝき付けたく、むしやくしや致し候故、無是非中絶。ますます一悶を加へ申候。是も/小生が自己を知らさりしより起りし事にて叩頭の外なしと覚悟いたし居り候。元来/小生は其前ハ兎も角文筆にたづさハりし此方、常に一心風流々々と目ざし、常に又愉/快に大得意に細きおもしろみを把へ得て嬉し悦ひ消光いたせしにより、青空を翔る/雲雀のやうと自分ながらも許し、餓死も恐れず、凍死も恐れず、仮令ハ強盗に野に/逢ふとも其中必す又一路の風流郷に通するものあつて、我ハ悲しみ悩みなからも楽しみ/を得べしと覚悟致し居りしが、段々辿り行く中、風流の一路も渡し舟なき大江の為メに/遮ぎられ居るを発見し、正理に協ふ情を風流といふものと大安心し居たるも、畢竟尚/風流を見ること近からざりし故と悟り、時々無礙三昧も最後の時一つに蹉躓するもの/と考へ、自分の情も無風流に働く時のあるを見付け、第一小説を作りし事の今まで/ハ残らず大無風流なりしを自ら責めて悲しく候上、尚此後も大無風流心をもつて/魔作の世界を小説と名づけべきかとおもへバ、筆を取る勇気も最早無くなり候。(以下略)
 

 
 
12 夏目漱石書簡
 
菅虎雄宛 明治40年(1907)9月2日 1軸  文庫14 C144
[解説]
夏目漱石(1867-1916)が親友の菅虎雄に宛てた書簡。今いる借家の家賃が月三十五円と高くなったのでどこかへ越したいとある。実際、漱石はこの手紙を書いたあと一ヶ月もしないうちに、牛込の早稲田南町に転居した。率直な人柄がよくあらわれた手紙。『坊ちゃん』『草枕』などをかいた翌年のものである。
[原文 ]
此間ハ失敬うちの/家賃を三十五円/にするといふ。三十五円/ぢゃいやだから出る積/だ。どこか好い所はな/いかね。無暗向不/見に家賃を上げる家/主は御免だ。御もよ/りに相当なのを御聞/及なら、一寸しらせて/くれ玉へ  頓首
九月二日/金/虎雄様
    (封筒表)小石川区久堅町七/十四番/菅虎雄様
    (封筒裏)本郷西片町十ロノ七/夏目金之助
 

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