資料形態 | 35mmマイクロフィルム 22リール |
請求記号 | M731(社会科学研究所より移管) |
原本所蔵 | 山県有信氏 |
製 作 | 国立国会図書館 |
内 容 | 山県有朋(1838-1922)は長門に生まれ松下村塾に学ぶ。その後、伊藤博文や高杉晋作らと討幕運動に参加、文久3年(1863)には奇兵隊軍監となり次第に藩政の主導権を握り、第二次長州征伐には一軍を率いて幕軍と戦った。 維新後は渡欧して軍制の調査研究にあたり(1969年)、帰国後兵部小輔、陸軍大輔、陸軍卿(1873年)と累進しつつ、新軍制や徴兵令の制定に努め、また佐賀の乱、西南戦争には征討参軍として鎮圧にあたった。その後、大隈・板垣等の失脚で、伊藤と共に政府の最高指導者となり、1882年参謀本部長兼参事院議長、1885年内務大臣、1888年首相(第一次山県内閣)兼陸軍大将、1893年枢密院議長、日清戦争時には第一軍司令官、大本営監軍兼陸軍大臣。1898年には元帥、第二次内閣を組織し軍部大臣現役武官制を実現、日露戦争では陸軍参謀総長として指揮にあたった。 1907年以降は元老として陰から政界を操縦し、陸軍省内を始めとして貴族院、宮中などに直系の人物を配置して発言権を維持し、 日韓併合対中国政策等で強硬論を唱え、時として内閣を瓦解させる影響力を行使した。しかし、大正期に入ると藩閥政治に対する批判が強くなり、「宮中某重大事件」で批判を受け、枢密院議長を辞した。文書のほとんどは山県と交わした書簡であるが、必ずしも年代順には並んでいない。 なお、内容を記した書冊目録は見当たらない。国会図書館で製作したマイクロ資料には必ず書冊の目録が添付されているが、なぜ山県家文書にはないのかは不明である。 |
検 索 | 当室で作成した内容リストによる。 |
関連文献 | 徳富蘇峰『公爵山県有朋伝 上・中・下巻』(記念事業会 1933) 他 |