古文書50選

8.六波羅施行状 1通 文庫12 118
貞応2年(1223)9月22日

六波羅施行状は、鎌倉幕府の六波羅探題が下知状・御教書などの形で幕府の下した命令を伝達する文書のこと。承久の乱における宇治川の戦で勲功のあった河野通久に対しては、当初阿波国富田荘の地頭職が与えられたが、通久から旧領である伊予国石井郷への所替の希望がだされた。本文書は幕府がそれを承認したことを六波羅探題から通久に通達されたもの。

9.春日大社廃安居屋柱刻興福寺僧理玄田地寄進状 拓本 1軸 イ4 3153 B276
仁治元年(1240)11月27日 奈良市 春日大社

興福寺の僧理玄が、論講大般若経転読供料として私領を春日社に寄進する旨記した田地寄進状である。柱に刻されているため全体が縦長になっているが、柱刻することで寄進した事実の永続性を強調したものと考えられる。

10.元興寺極楽坊本堂柱刻家地沽却状 拓本 1軸 イ4 3153 B279
文永2年(1265)3月22日 奈良市 元興寺極楽坊

極楽坊本堂内陣北隅の柱に刻されたもの。内容は大和国添上郡の家地についての沽却状である。まずその伝来の過程を記し、続いて現在の所有者である伊王女が、極楽堂七昼夜念仏衆に売って新たに券文を立てたが、もとの券文については焼失してしまったとある。柱に刻することで売買の事実の永続性を確認しようとしたものと考えられる。

11.東二条院令旨 1通 イ4 3153 A6
弘安10年(1287)3月28日

本来公式令で、皇太子、三后の意を伝えるものとして定められた令旨は、平安中期以降、奉書形式によって女院、親王らにも用いられた。東二条院は太政大臣・西園寺実氏の二女・公子で、正嘉元年(1257)正月に後深草天皇の中宮となり、後深草が亀山に譲位した正元元年(1259)に院号宣下をうけた。こののちの後深草=持明院統、亀山=大覚寺統の対立が、南北朝の対立へとつながってゆく。

12.関東下知状 1巻 文庫12 25
弘安10年(1287)4月19日

関東命令書とは、鎌倉時代、幕府から直接発給される命令書のこと。執権・連署が揃って署判する。本文書は、備前国にある東寺最勝光院領に関する相論に対する幕府の下知を伝えるもので、執権・北条貞時(相模守)、連署・北条業時(陸奥守)の署判がある。

13.武蔵国留守所代連署書状 1通 文庫12 21
年月日未詳

分倍河原の堤防修築のうち、すでに命ぜられた分について早々に対処することを督促したもの。「国中平均支配」とあることから武蔵国あげての修築作業であったことがわかる。

14.友山士偲度蝶 1軸 文庫12 122
正和2年(1313)4月8日

臨済宗の禅僧、友山士偲(ゆうざん しさい、1301〜1370)が嘉暦3年(1328)に元(中国)に渡海するに際して作成された身分証明書。度牒は度縁、戒牒などとも言われ、出家受戒の証明書として数多く作成された。そのため文章も形式化し、本文書のように日付や署名、個人にかかわる部分を除いて版刻したものもある。