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 満州土俗版画 略解説
(昭和十一年一月 淺井暹記)

 目録に用ひた名称は、各版画にある款識の文字を便宜上取ったもので、之なきものは適宜に扱った。 而して、俗信上の對象物としての版画夫々の機能に依る幾つかの部類の区分には、力めて俗称を当てはめることにした。(俗称を附すると、分類を困難ならしめる場合には、それを避けることにした。)―――即ち、最初の便宜的な名称に、この第二種の名称を附記することに依って、より理解を容易ならしめるものであると考へる。唯だ断って置きたいことは、この分類は未だ完全なものでなく、又、より本質的に集約して区分されてもゐない。これは、充分な土俗上の調査と検討を経て、初めて完璧を期されるものと云はねばならない。それから、各版画の採集された地域に就いて云へば、目録のNo.108―174〈No.1―62(ただし、現在、No.1は欠)〉は、大連市小崗子街を中心にして得たものである。此の街の住民は大部分、山東地方から移住したしな支那人である。No.175-194〈No.63―82〉は、大石橋郊外、迷鎭山の娘娘廟會(廟祭)の当日に採集せしものに係る。
 次に、目録に従って、極めて概括的に解説を試みて、各版画の意義の幾分を知りたいと思ふ。尚、此の種の解説には、古い文献に觸れることの甚だ有利なるを感じるものであるが、いま假にそれを除外することにした。

 No.108〈No.1(欠), 2〉の一對は、正月に外門の両扉に貼附される駆邪符で、神荼、鬱壘と云ふ傳説的な人物を、武装の姿で描かれてゐる為に、次出の門神に對して、俗に『武門神』と称されてゐる。
 No.109, 110〈No.2の1,2の2〉は、同じく正月に外門の両扉に一對に貼られるものであるが、これは、前の武門神を用ひない場合に使用されるのが普通である。(家の裏手の門、或は居室に通ずる入口の扉に貼られる時もある。)而して、『文門神』の俗称ある如く、古代の文官裝の人物が表現されてゐる。画面には各種の吉祥語が識されてゐて、『加冠、晋禄』と云ふのが、最も普通に見受ける吉祥文字で、此処に目録に入れた『子孫、萬代』は、多数ある中の唯だ一例に過ぎない。尚、本門神は性質上、武門神の駆邪符としてよりも、吉祥画に屬するものであるが、微かながら一種の呪力を認められてゐるものと思はれる。
 No.111, 112〈No.3,3の1〉の二種は、前の門神の如く、二枚一對として用ひられるものでなく、一枚單獨に居室の扉や、後門に貼られる吉祥的主題の画面を持つ門神で、その点、殆ど文門神と同性質と見ることが出來る。――唯だ文門神に於いては、各種の変わった吉祥語が用ひられても、大体、画面には文官裝の人物と、それに隨從する童子像が表現されてゐることが各々共通して居り、この門神、即ち『單門神』では、取材の範囲は広く、主として画面にふさはしい吉祥語が使用されてゐる。
 No.113118〈No.4,5. No.6,7. No.8,9〉の三對の版画は、俗称は『門童子』として扱はれてゐる。この類のものは、『麒麟送子』と云ふ傳承の圖象化が基本となってゐて、唯だ各々多少の変化を見るのみである。これは、前記三つの門神とは違って、必ずしも正月にのみ使用されるとは限らず、時には、新婚者の寝室に貼附される。けだし、この版画は、多くの場合に室内、主として婦人の部屋に用ひられてゐるもので、『麒麟送子』の歡念から発した授兒祈願の表徴と考へられる。
 No.119, 120〈No.10,11〉は、竈神(竈君、或は竈王爺とも称す。)を表したもので、画面の上辺には簡單な年暦が附加されてゐる。画面の竈神と並ぶ女性神は、竈神の夫人、即ち竈?[女偏に乃]?[女偏に乃]で、一人描かれてゐる場合と二人の場合がある。本神の昇天日として、年末十二月二十三日に、竈辺に祭祀りしてあるこの画像を竈に投じて燃す。此の地方の竈の構造は普通に竈の煙は?[火偏に亢](オンドル)を通じて戸外に吐き出されるやうになってゐるものである。即ち竈口に投ぜられた竈神像は、煙となって?[火偏に亢]を通過して上天されるとしてゐる。本神の下降する大晦日の夜に、各家で迎神の儀禮を行ひ、新しくその年の暦の附いた本神像を竈辺に前年の如くに貼り、一ヶ年間の一家の主護神として、また善悪をしろし召す神として祀るもので、最も善遍的に厚信されてゐる。
 No.121, 122〈No.12,13〉大晦日の十二時を過ぎると各家庭で、天から下降する諸神を迎へる『接神』の儀が行はれる。その祭壇の正面に、『天地九佛諸神總聖』、即ち俗称『百分』が祀られる。降臨した諸神が此の年の末に上天するまで、一ヶ年間は一家の主護たる可く、家屋内の聖なる場所に、新しくこの画像が祭祀されるのである。この図像とNo.121〈No.12〉『天地三界十方萬靈眞宰』は、同種のものであると考へられる。少く共、両者の区別が明確でない。上記の『接神』の儀禮が、家に依り極めて簡單に取て行はれたり、竈神を迎へる儀と混同されたり、全然行はれなかったりする場合がある。
 No.123―125〈No.14, 14の1, 14の2〉の三枚は、『年画』と称して、正月の室内の壁面を飾る為に用ひられるもので、興味深い演劇圖や、吉祥画が主たる画題になって居り、平和な家庭團欒や、農村の情景を描出せるものもある。甚だ種類に富んでゐる。
 No.126〈No.15〉の『冥衣』は、冥界にある近親等に衣服を送る意を込めて、位牌の前で焼却するのである。煙となれば、冥界に到達するものと考へられてゐる。
 No.127〈No.16〉の鐘馗像は、端午節に主として室内の壁か、室の入口に貼られ、時には外門に用ひられる[原文ママ]てゐるのを見受ける。これは、駆邪符である事は云ふまでもない。
 No.128, 129〈No.17, 18〉は、上下に連結して、多くは外門の上辺に貼り附けられる。『火コ眞君』は、即ち火神であって、けだし、火災除けを意味してゐる符と推察される。前の鐘馗と同じく、端午節に用ひられる。
 No.130, 131〈No.19, 20〉は、ともに『葫芦噴』と称される雙六の大形と小形のものである。これは俗信上全て重きを置かれるものではないが、唯だ傳統的に、正月の遊戯として親しまれてゐるに過ぎないと考へる。
 No.132〈No.20の1〉の『陞官圖』と称されている雙六も、前者の如く正月の遊びに供せられる。
 No.133―174〈No.21-62〉の四十二種のものは、使用法に異例があるが、概括して見れば、適宜の神像のものを撰んで、一定の儀禮に依って、神前等で焼却して、呪禁の目的を達するための符と云ふことが出來る。時には、或る期間中、信仰する神像を壁面に貼附して祀る場合もある。―――夫々職業の異るに從って、信仰する神佛も違ひ、また祈願の種類に依って、祭祀する神像が定められてゐる。
 No.175―194〈No.63―82〉は、最初に記したやうに、大石橋、娘々廟會のものである。この廟會は毎年舊暦の四月七日前後の数日間行はれる。而して、この廟會に使用される所の極めて地方的特色を示した呪符である。これ等は、前のNo.133―174〈No.21―62〉の類と同じい性質の物であることは云ふまでもない。
 最後に、此の短文を結ぶにあたって、附加して置きたいことは、小崗子街採集の分は、天津方面より輸入されたものであり、大石橋娘々廟會のものは、その附近の農夫等が間暇の折に、原始的な手法で製作したもので、技術的に極めて素樸な地方色を発揮したものと云ふことが出来る。
 本文を草するに当って、永尾龍造氏の『支那民俗誌』及び『支那の民俗』からは、色々な示唆を與へられたことを感謝するものである。(昭和十一年一月淺井暹記)

注)『支那民俗誌』3巻 永尾龍造著 支那民俗誌刊行会 昭和15-17年刊 3冊
『支那の民俗』 永尾龍造著 磯部甲陽堂 昭和2年刊


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