第2部 第1章
広告メディアにみる幕末・明治(後編)


分見絵図引道具類

御眼鏡細工所

まんぢう御菓子所

宇治信楽諸国御茶所

切手ニ種

戯作者の引札


 戯作者の引札 加藤江曳尾庵(えいびあん)の随筆『我衣』によれば、引札は宝永年間(1704-10)から始まったとされているが、一方では天和三年(1683)、江戸駿河町に新店を出した越後屋・三井高利が、わが国の商業史上画期的な「現銀掛値なし」の新商法を記した引札を市中にくばったという記録もあり、正確なところはわからない。 ともあれ文化・文政期以後、引札はきわめて多種がつ大量に出回るようになり、花盛りの状態を現出するが、その隆盛に一役も二役も買ったのが、江戸の文人、いわゆる戯作者たちであり、かれらのものしたコピ−であった。ここに掲げた京伝・三馬・種彦・春水らのほかにも、平賀 源内・曲亭馬琴・大田蜀山人らが引札の筆をとっており、戯作者以外にも渡辺崋山や本居宣長のような人でさえ、引札を書いている。なかでも有名なのは、風来山人平賀源内の著した「漱石香」という歯みがき粉の引札で、「東西東西」の呼び声で始まる口上広告の調子を模した、源内とくいの機知にあふれた文章が、江戸庶民の喝采を浴びたであろうことは想像に難くない。もともと引札の文というものは、「乍悼(はばかりながら)口上。御客様方益(ますます)御機嫌能被遊御座(よくござあそばされ)、恐悦至極奉存候(ぞんじたてまつり)」からはじまって、「賑々敷(にぎにぎしく)御来駕之程、伏(ふして)而奉希上(ねがいあげたてまつり)候。以上」でおわる、いわばオーソドックスなスタイルというものがあって、明治にまで至っているのだが、源内によって、そしてまた、源内に続いた京伝以下の戯作者たちによって、引札はいわば文学化され、読み物化されて、内容・形式ともにめざましい発達をとげたのである。 かれらが執筆したのはここに見るような一枚摺(ずり)の引札ばかりではなく、「景物本」と称される宣伝用黄表紙もあった。恋川春町の『三舛増鱗祖(みますますうろこのはじめ)』、山東京伝の『女将門七人化粧 (おんなまさかどしちにんげしょう)』、曲亭馬琴の『曲亭一風京伝張(きょくていいっぷうきょうでんばり)』、式亭三馬の『綿温石奇効報条(わたおんじゃくきこうのひきふだ)』などが、その代表的なものである。これらは、うちつづく太平の世の享楽的傾向、消費経済の膨張とあいまって、多くの草双紙の類とともに、肩のこらない読み物として江戸市民に歓迎 され、享受された。また、銀座でキセルとタバコ入れの店をひらいていた山東京伝が、自家製品の包装紙用に、判じ絵文字をならべた引札を考案し、大評判となったことも有名なエピソードである。 総じて、戯作者たちの才智にたけた遊びの精神と、卓抜なアイディア が、引札という分野に革新をもたらし、日本の広告史上に記念すべき一頁を開いたといえるであろう。

大安売引札

湯屋開業引札

御書物所

夜ならひ通ならひ算術読もの

二世楽亭西馬襲名口上

旅籠引札

夏物無双大安売

呉服店引札

遊女大安売

遊女大安売

遊女大安売

女悦道具薬品々

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