No.3(1985.1.30)p 3


表紙写真解説

中村進午(1870〜1939)

法学博士、中村進午文庫旧蔵者



中村博士は国際法研究の第一人者だった。早稲田大学がまだ東京専門学校だった明治27年から、亡くなる昭和14年まで(この間、2度の海外留学をしているが)本学はもとより、国内の約15校にも及ぶ大学で教鞭を執ったそうである。彼の講義には定評があった。

先生の講義の特色は透徹した声で、明晰な語を緩やかに使はるる間に、巧みな諧謔が口を突いて出たことである。学生聴講者は抱腹絶倒一度にドッと笑ふのに、之を語る先生自身は真面目な顔をして冷々淡々微笑だにしないので可笑しさを増した。

寺尾元彦「故中村進午教授を偲びて」 ―「早稲田学報」昭和14.11)



彼がときおり授業で見せた「諧謔」とは、いったいどのようなものだったのか?本館の研究書庫に二冊の本がある。『蛙のはらわた』(著者は熱河中村進午となっている。「熱河」とは彼の雅号であり、ドイツ留学中に好んで散策したライン河支流の名〔ネッカー河〕に因んでつけたもの)、そして『天に口なし』。題から想像がつく通り、これらの本は国際法とは何の関係もない。東西古今の「チョットいい話」を抜粋収録して短いコメントをつけたものや、留学中のエピソード、そして随想などから成る。

例えば「山鹿素行の記したる日本の海なき国の歌」の項を見ると、こんな調子である。

海なきは大和山城伊賀河内
つくしに筑後丹後みまさか
あふみぢや美濃ひだの国甲斐信濃
上野下野これぞ海なし

余の小学校の先生藤村美周師が、亜米利加の「ハイチ」「ヂャマイカ」「キュバ」「バハマ」を覚えにくき故

掃いて寝まいか、 ( ) さ、 婆様 ( バサマ )
と覚えようと云はれた、それからは決して忘れることはなかった、仏蘭西語で「雪隠ノチョウズケツ ( クセ ) イ」と云ふのがあると織田萬君が云ふ、これは「セ、チューヌ、ショーズ、ケスクセ?」と云ふことである…〔中略〕…余が明治三十三年に作った梅と ( アンヅ ) と何れが低価なりやを、「案すよりはウメが ( ヤス ) い」で解たなどは自慢の積りである…
(『蛙のはらわた』より)

あるいは講義の合間にも、こんな話が出たのかも知れない。この二冊の執筆の際に参考になったと思われるのは、膨大な江戸期の刊本であるが、「熱河先生」はその分野のすぐれた蔵書家でもあった。そして没後(昭和14年)、これらの和装本は本学(当初は法学部)へ寄贈された。昭和32年、図書館へ移管。

すなわち、中村進午文庫(文庫5)である。

中村進午文庫の概要は、「ふみくら」15号(昭和63.11)を参照されたい。前述の『蛙のはらわた』(大2.11廣文堂刊)は請求番号「イ5・786」、『天に口なし』(大10.7弘学館書店刊)は「イ5・1570」で配架されている。

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