No.32(1991.10.25)p8

資料保存問題に関心を



資料保存問題検討委員会        


   形あるものはいつかは滅びる。バベルの塔も、バビロンの架空庭園もいまはない。我々が今日、ホメロスや万葉集のような古典を読むことができるのは、それを書物という形にして伝えてきたからである。史上名高いサッフォーの詩などは、カトリック教会のたびかさなる焚書に遭ったせいで、今日ではごくわずかな断片しか遺されていない。

    はるかな昔、書物といえば写本のことであった。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』にでてくるような中世の修道院で、修道士たちが営々と書物を書き写していたのである。従って書物は貴重品であり、たいせつに扱わねばならないものだった。グーテンベルクが活版印刷を発明して、本の大量生産が可能になってからも、この遺風は残っていた。「本をまたいではいけない」「本を投げてはいけない」というような教えが、庶民の生活の中にも浸透していたはずだ。

    産業革命以後、本の大量生産は飛躍的に進んだ。これが、教育の普及、文化の向上、学術研究の進展に大きく寄与したことは、いまさら多言を要しない。しかし同時に、大量かつ安価に供給する必要に迫られて、これまで吟味した良い材料で作られていた本が、しだいに粗悪な紙、質の悪い印刷インクで作られるようになったのも、また歴史の必然といえるのかもしれない。

    19世紀後半以降出版された本の多くは、木材パルプを原料とし、機械で抄かれた紙を使って作られるようになった。機会抄紙の過程で加えられるロジン・サイズというものと、木材パルプに含まれるリグニンが、紙を酸化させ、繊維をもろくして劣化させる主原因となる。こうして、19世紀後半以降出版された本の寿命は、それまでに比し、きわめて短くなってしまった。

    正倉院御物の中にある和紙などが、千年以上の時を経てもなお強さを保っているのに、たかだか100年前の本が、さわるだけでポロポロと欠けくずれていってしまう。この現実にどう対処すればよいのであろうか。

    この、いわゆる<酸性紙問題>をめぐって、数年前から、全世界の図書館が動き出した。IFLAでも資料保存コア・プログラムというものをつくって、劣化する資料の保存協力のためのネットワークづくりを呼びかけている。わが国におけるセンター館である国立国会図書館では、資料保存課というものを作ってこの問題に取り組んでゆこうとする姿勢をみせている。

    東洋一の新館を作ったわが早稲田大学図書館においても、この問題を避けては通れない。本館では、先に明治期資料のマイクロフィッシュ化という遠大な事業をスタートさせ、「ふみくら」でもたびたび特集を組んだ。また、図書館紀要の特集テーマや館内研修のテーマとして資料保存をとり上げてきた。しかし、まだ、この問題が、切実な問題として現場の館員や利用者一人一人に意識されているとはとても思えない。それに、なにより政策がない。一定の見識にもとづく、保存に関しての確固たる方針がないのである。

    資料保存問題検討委員会は、こうした問題についての全館的な施策、方針を考える場として発足した。問題はたくさんある。例えばコピーによる本のいたみをどうするか、製本や修補について検討すべきではないか、資料の運用の仕方に問題はないか。委員会はまだ緒についたばかりで、議論は錯綜している。しかし、とりあえず重要なことは、資料を扱う館員一人一人がこの問題に関心をもち、知識をもつことであるといいたい。図書館百年の計を誤ぬよう、みんなで努力してゆきたい。


(記・松下)    






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