No.31(1991.9.20)p 10-11

本の周辺16

A. ネフスキイの「宮古島方言資料」

本間暁(外国図書課長)



    さる5月31日、文学部藤沼貴教授の紹介でソ連科学アカデミー東洋学研究所副所長バリシリエフ氏他、ゴレクリャド氏、グロムコフスカヤ女史が図書館を訪れ、ソビエトの東洋学者ニコライ・ネフスキイの「宮古島方言資料」(未刊)草稿のマイクロフィルム1巻を寄贈された。

    この資料は、日本語方言研究、とくに琉球方言の研究に重要なものであり、早速情報を得た文部省重点領域研究・日本語音声研究グループの研究者等が当館を訪れ、参考資料として活用するなど、様々な反響をよんでいる。

    マイクロフィルムやマイクロフィッシュの役割は、資料の劣化による保存の問題や大部な資料をコンパクトに保管することができることから図書館にとって大きなものになってきている。またマイクロフィルムはこの資料のように他の機関がもつ草稿のままでしか存在しない、未刊の資料を利用する際にも大変有効である。当館ではマイクロフィルムそのものと紙焼きし、製本したものを利用に供すべく現在作業を行っている。

    さて、草稿のニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ネフスキイ(Николай  Александрович  Невский)は1892年にロシヤの古都ヤロスラウリに生まれた。ボルガ川の交易の中心であったルィビンスク(現アンドロポフ)で育った彼は、そこでタタール語やアラビヤ文字に興味をもった。彼は、1909年ペテルブルグ工芸専門学校に入学するが、東洋の言語に対する興味は深く、退学して1910年ペテルブルグ大学東洋語学部に入学して、中国語や日本語を学んだ。卒業後2年間の予定で1915年に日本に留学するが、1917年の革命により帰国の機会を逸し、1929年に帰国するまで15年間に渡り日本で研究生活を送った。この間、1918年に小樽高商ロシヤ語教師、1922年大阪外語学校ロシヤ語教師になり、京都大学などでも教鞭をとった。

    1921年小樽在住時代に増毛の漁師の娘である萬谷磯子と結婚している。日本での研究生活では民俗学を中心とし、オシラ様の研究、アイヌ語や宮古島方面の研究をし、1925年には西夏語研究のため北京に赴いたり、27年には台湾を訪れ、曹族言語の研究などを行っている。研究生活の中で折口信夫、柳田国男などと親交を結んだ。 1929年に帰国、レニングラード大学や現代東洋語専門学校で教鞭をとり、科学アカデミー東洋学研究所研究員となったが、スターリンによる粛清の犠牲となり、1937年10月逮捕、公式発表では1945年2月に死亡したことになっている。1960年「タングート言語学」(2巻)が科学アカデミーによって刊行され、名誉回復された。


ネフスキイの肖像写真

    柳田国男は「故郷七十年」(定本柳田国男全集別巻3 筑摩書房 昭39)の中で、ネフスキイの生涯について「帝政ロシアから日本に来て、学校の先生をしながら民俗学の研究につとめ、北海道の日本の女性と結婚し、革命後騙されて労農ロシアへ帰り、夫婦とも酷い最期を遂げたのであった。実に気の毒な篤学者といはなければならない」と述べ、その功績については、ネフスキイの功績を大きくわけて三つとし、第一にはオシラ様研究、第二に西夏語の研究、第三に沖縄語の研究をあげている。沖縄言語、とくに宮古島方言の研究は「1921年末から翌22年初頭にかけて、ネフスキーは東京に滞在したが、当時アイヌ語と宮古島方言を研究していた。日本の北方と南方とはいかにも結びつかないようであるが、ネフスキーの中ではそれは一貫していた。すなわち日本の古語・古俗は列島の縁辺部に残っているという考え方」(加藤九祚 ニコライ・ネフスキーの生涯「月と不死」(東洋文庫解説)に基づいて行われ、1923、26、28年の三度にわたり宮古島に調査を行い、その成果を雑誌「民族」に「アヤゴの研究」(2巻1号)、「宮古島子供遊戯資料」(2巻4号)、「月と不死(1)(2)」(3巻2、4号)を発表した。また方言辞典の編纂を目指してカードやノートを作った。調査の方法について柳田は「ネフスキーのほうはわれわれと同じく現地へ行き、現在の言葉が、何年何月ごろのどこそこでは、これこれであったといふふうな報告をして事情を明らかにしようとした。非常にはかのゆかない仕事であるが、その功績は無視するわけにはゆかない」と述べている。

    ネフスキイの宮古島研究の成果はこれまで、先に記した「民族」の諸論文、東洋文庫中の岡正雄編「月と不死」(平凡社 昭46)とソ連科学アカデミーから刊行された Фольклор  островов  Мияко(Москва,Наука,1978)(「宮古島のフォークロア」)などである。「宮古島のフォークロア」には、今回寄贈にあたって来館されたグロムコフスカヤ女史による「ネフスキイ・宮古島フォークロアの研究者」との論文が付されている。今回寄贈のマイクロフィルムは、タイトルにМатерьялы  для  изучения  говора  остовов  Мияко(「宮古島方言研究のための資料」)と記され、Словарь(辞書)としるされている。用紙は大学ノートと思われるNOTE-BOOKにAからZまで(なかにはロシヤ文字ЗやСを見出しにしたところもある)を見出しとして、見開きを1葉として596葉のものである。前途の方言辞典の編纂を目指して作ったノートであろう。

    内容その他については、今後の研究の成果を待つべきであるが、この資料ほど受入れ直後から反響の大きなものも珍しい。



A.ネフスキーの「宮古島方言資料」
※なお、寄贈の反響として、8月7日付け朝日新聞夕刊に「取材ファイル・ネフスキーのノートを寄贈」との記事が載った。また「Newsletter 日本語音声」No.11(1991.7)には上村幸雄琉球大学教授による「速報−ネフスキーの宮古島方言ノート、日本へ」との記事が掲載されている。




図書館ホームページへ

Copyright (C) Waseda University Library, 1996. All Rights Reserved.
Archived Web, 2002