No.27(1990.12.15)p 2-3

印刷文化を守るために


野口洋二(図書館長)


    かなり前になるが、ある雑誌で「アメリカ議会図書館の蔵書約2000万冊のうち四分の一が貸し出し不能、パリ国立図書館の蔵書1200万冊のうちうち60万冊が破損のため無きに等しい状態にある」との記事を読んで、強い衝撃を受けたことがる。国立国会図書館や慶應義塾大学の調査によると、わが国では、さいわいにして欧米ほどには劣化が進んでいないようであるが、事態がかなり深刻であることは間違いない。

    ところで、印刷資料の劣化には、もちろんさまざまな原因がある。紙が酸化してボロボロになる他、自然に放っておいても本は壊れるし、利用すれば利用するほど本は傷むからである。しかしその最大の原因は、何といっても酸性紙による劣化であろう。欧米では19世紀半ばからの出版物、わが国では洋紙が製造されはじめた明治初年からの本や雑誌は、その大部分が百年かせいぜい百五十年くらいしか寿命がないと言われている。そのため、すでによく知られているように、欧米を中心にして、この問題への対応策が真剣に討議され、幾つかの方法が行われてきた。

    たとえば、アメリカ議会図書館が取り組んでいる蔵書の大量脱酸処理法の開発をあげることができよう。これはすでに実際に行われているようだが、真空タンクの中で一度に5000冊の本をジチエル亜鉛ガスで中和する方法である。この方法だと、年に150万冊を処理することができ、一冊ごとに処理すると150ドルはかかるのにたいして、一冊5ドルにしかならないという。だが、先にも述べたように、議会図書館だけで2000万冊もの蔵書があり、これを処理するだけで十数年の歳月を要し、ざっと1億ドル(140億円)の巨費がかかる計算になる。

    いま一つは、イギリスの大英図書館を中心とる蔵書の大量のマイクロ形態化の動きが注目されよう。これは単に酸性紙対策にとどまるものではなく、過去の文化遺産を全体的に保存しようとする運動の一環であるが、15〜17世紀の本を対象としたSTC、18世紀・19世紀の本を対象とするESTC、NSTCの作成が計画されてきた。このうちESTCが近く完成し、酸性紙の資料を含むNSTCもすでに目録の作成が終わり、マイクロ化すべき資料の選択に入っていると聞いている。またこの他、真空パックによる保存も試みられており、アメリカ、イギリス、デンマークなどで精力的に試みられているという。

    こうした状況の中で、早稲田大学図書館は、危機に瀕している明治期の資料を保存し、あわせてこの時代の出版文化の全貌を明らかにするために、現在考えられうる最も確実な方法として、そのマイクロ化を計画し、1987年4月「明治期資料マイクロ化事業委員会」を発足させた。そして先ず早稲田大学図書館に所蔵されている文学・言語関係の資料を、国立国会図書館、慶應義塾大学の図書館などのご協力をえながら逐次マイクロ化してきた。現在、文学の部の約三分の一のマイクロ・フィッシュの製作を終えたばかりであるが、さらに国内の図書館はもとより、アメリカ、イギリス、オランダ、中国、韓国などに収蔵されている資料も加えて、より完全な集成を作るために努力していきたいと考えている。また最近、国立国会図書館も明治期資料のマイクロ化に着手したとの朗報に接した。その計画によれば、同図書館に収蔵されている資料を対象に、昨年10月に「歴史」部門を刊行し、つづいて「伝記」「哲学」「宗教」「地理」「風俗」の各部門を取り上げていく計画だという。この計画が順調に進展し、われわれの計画と手をたずさえて、明治期資料の全体的かつ完全な保存が完成されることを心から祈りたい。

    しかしながら、保存しなければならない資料は、言うまでもなく明治期資料のみではないのである。もちろん、明治期に刊行された資料の保存は焦眉の急を要する。従って、まずこれから手をつけなければならないことは言うまでもない。だが、大正・昭和をつうじて今日まで刊行されてきた本や各種の資料も、酸性紙であるかぎり、いずれは消滅する運命にある。確かに、近年酸性紙問題が喧しく論じられるようになってからは、わが国でもアルカリ抄紙(中性紙)の開発が進み、じょじょに酸性紙の製造から中性紙のそれへと転換が進められてきた。しかし現在でも、書籍や辞典などに使われる紙を中心に、上質紙系の20〜30パーセントが中性紙で製造されているにすぎず、将来貴重な文化財となるべき大量の資料が依然として酸性紙を利用している状態にある。これは製紙メーカーの側に、まだ幾多の技術的な問題やコストの問題などがあり、これらの点が依然として解決されていないからである。

    ところで、最近たまたま、あるアメリカの雑誌で次のような記事を読んだ。それは1988年10月にワシントンD.C.で開かれた、アメリカ製紙工業技術会の年次研究集会について書かれた記事である。それによると、この集会には図書館員をはじめ製紙業者、政府印刷局の代表、国会議員など、紙の保存や製造や管理に関係する各方面の人々が集まり、資料の劣化の現状が報告されるとともに、それにたいする対策の遅れが指摘され、この問題がさまざまな面から討議されたという。

    すなわち、アメリカ全体の蔵書の40パーセント以上が消失する危険があり、議会図書館では毎年77,000冊の資料が利用不能となっている。国立医学図書館では書籍・雑誌などの12パーセントがバラバラになってしまった。またニューヨーク公共図書館では、1988年度だけで保存のために320万ドルを支出している。しかし、劣化がこのように進行しているにもかかわらず、酸性紙を中性紙へ転換させるための政府の対応は製紙業者に対しても政府刊行物に対しても十分でないこと、また製紙業者たちの協力もほとんど得られていないことなどが指摘されたという。そして、酸性紙問題を克服しなければならないとの合意は得られているが、いかなるグループが中性紙の一般的使用を求めてイニシャティヴをとるべきかについては全く意見の一致をみていない。従って、酸性紙の全廃を求めて、すべての関係者が一致して強く要求しなければならないことが確認された、というのである。

    酸性紙問題についてはもっとも進んでいるアメリカでもこうした状況にある。それだけにこの問題には、さまざまな困難な点が含まれていることは明らかであろう。が、それはともかく、紙の劣化の問題は、図書館員や文化人が文化財の危機をいくら声を大にして叫んでも解決しない。また、印刷資料をすべてマイクロ化して保存するなどということは到底出来るものではない。それに、図書館などが資料保存の環境をいかに整備しても、すでに進行しつつある劣化を完全に食い止めることは恐らく不可能であろう。とすれば、図書館員をはじめ、行政に携わる者、政治家、出版業者、製紙業者、科学者などすべての関係者が。この問題に一致協力して取り組み、酸性紙を中性紙に転換させていく以外に方法はないのではあるまいか。

    百年後、二百年後における資料保存を考え、この問題を包括的に討議し、対策を決め、それを政策として強力に推進する場を早急につくることを提案したい。

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