No.26(1990.11.15)p7-8

本の周辺16                                                                      


佚書の発見

稲畑耕一郎(文学部教授)


    中国は文字の国であり、書物の国である。有史以来、今日まで、漢字によって記された書物がどれほどの数をもって世に行なわれてきたのか見当もつかない。しかし、その一方で、悠久の時の経過の中に姿を消してしまった書物もまた数限りないようである。この失われた書物を<佚書>という。
    ところが、幸いなことに、<佚書>となったものの中には、偶然の機会から、再びこの世に姿を現わすものがある。
    晋の咸寧五年(279年)、河南汲県で戦国の魏の襄王の墓が暴かれ、大量の竹簡に記された古書が発見された(『晋書』武帝記)。この小篆で書かれた「十万余言」にのぼる竹簡は当時の学者たちによって整理され、佚書20種近くが得られた。今に伝わる『竹書紀年』『穆天子伝』などがそれである(ただし、前者はその後また散佚し、現行のものは後の再輯本)。南斉の建元元年(479年)にも、湖北襄陽の楚王墓から、『考工記』などの竹簡が出土したと伝えられる(『南斉書』文恵太子伝)。




    近年、中国各地では考古発掘が盛んに行なわれており、それに伴って少なからぬ数の佚書が私たちの目に触れるようになった。先秦期の文字資料としては、すでに甲骨文字や金文が知られており、その中には部族や国の歴史を記した長文のものもあるが(「史墻盤」「中山王?鼎壺」など)、通常いうところの“書籍”とは若干性格を異にすると思われるので、ここでは竹簡・帛書について取りあげることとする。
    先秦期の墳墓から発見された竹簡・帛書の数は、まださほど多くない。それでも、私の知る限りでも12件(出土例)、文字数にして4万字を上回る。そのうち点数からすれば、「遣策(冊)」といって、副葬品目録のようなものが多いが、書籍により近い内容のものとしては、裁判関係の記事や君臣間の問答、ト筮祭祀の記録、日時の吉凶習俗を記した竹簡などがある。
     たとえば、河南信陽の長台関1号墓(戦時中期、1957年発掘)から出土した竹簡には、『太平御覧』巻802に引かれる『墨子』の佚文に近い問答が見える。まだ湖北?門の包山2号墓(戦国中期、1986・87発掘)出土の裁判記録からは、当時の事件(殺人・逃亡・土地所有権争いなど)処理や行政機構の具体的な情況を知ることができる。
    帛書としては、湖南長沙の子弾庫の戦国中・後期の墓から出た「楚帛書」がある(1942年盗掘)。 縦38.7cm、横47cmの帛の上に12の奇怪な神像とともに900余字にのぼる楚の文字が記されており、 その神話的内容を含んだ難解な文章については、さまざまな解釈が行なわれてきている。 これより時代がやや下って、秦から漢初(武帝期以前)となると、出土文献は格段と多くなる。 まとまって出土したものとしては、次の3件である

1)湖北雲夢睡虎地秦墓出土竹簡 B.C.217年埋葬、1975年発掘
2)湖南長沙馬王堆漢墓出土竹簡・帛書 B.C.168年埋葬、1973〜74発掘
3)安徽阜陽双古堆漢墓出土竹簡 B.C.165年埋葬、1977年発掘


    睡虎地秦墓(11号墓)は、始皇帝の時の獄吏の墓で、秦の法律文書(『秦律十八種』『效律』『新律雑抄』など)を始め、戦国期の歴史を記した『編年記』、儒家的な処世訓を集めた『為吏之道』、日時の吉凶をめぐる習俗を記した「日書」(原題、2種)など九種の文書を出土した。特に法律文書は、「唐律」以前のまとまった文献がなかったことから画期的な発見であった。『日書』も、これによって秦代の暦法やその習俗が明らかになった。同類のものは、湖北江陵九店の戦国期の墓や馬王堆漢墓・双古堆漢墓からも出ており、その流行のさまがうかがわれる。
江陵?門包出土
竹簡二種(部分)

     馬王堆漢墓の名は、最初に発掘された1号墓から見事な彩色帛画や「生けるが如き」といわれた「湿屍」などが出たことで人々の関心を集めたが、その後、3号墓からはさらに注目すべき大量の帛書と竹簡が出た。帛書はまだ整理作業を完了していないが、現在までに判明しているものは、28種、約12万余字にのぼる。そのうち、『周易』と『老子』が既知のものであった他は(それでも現行本との間にかなりの字句の異同がある)、いずれも初見の文献であった。大半は書名を欠いており、内容から『春秋事語』『戦国縦横家書』『黄帝四書』『篆書陰陽五行』『五星占』『天文気象雑占』『木人占』『相馬経』『五十二病方』等々と名づけられた。
    『春秋事語』は、16章に分かれており、それぞれに春秋期の各国の事件とそれについての時人と後人の評が記されている。『戦国縦横家書』は、いわゆる縦横家の言動を記したものであり、内容的には『戦国策』や『史記』と重なる部分もあるが、半ば以上は未知のものであった。『五十二病方』は、各種の疾病の治療法を記す医学書で、五行説の痕跡のないところから、現存最古の『黄帝内経』よりさらに古いものと考えられている。
     阜陽双古堆の1号墓は、馬王堆とほぼ同時期の前漢墓である。そこからは『刑徳』『万物』『作務員程』などの佚書の他、先秦期の『詩経』『楚辞』や秦の李斯の編んだ字典『蒼頡編』が出ている。『蒼頡編』は李斯の時代と50年と距っておらず、字数も541字とこれまで知られていたものの中で最も多い。『詩経』も、歴代、佚詩・異文の蒐集が試みられてきたが、今回の出土によって異文の点では一挙に最古の資料を加え、漢初の語音の研究や詩の解釈の点でも貴重な発見となった。
     これら三つの墳墓に続くものとして、4)山東臨沂の銀雀山漢墓(武帝期前期、1972年発掘)の竹簡がある。ここからも多数の貴重な佚書が得られた。『孫?兵法』は、その代表である。『漢書』芸文志には「呉孫子兵法八十二篇、斉孫子八十九篇」と二つの『孫子』が著録されている。前者の著者は孫武、後者はその孫の孫?である。ところが、後世に伝わったものは、13篇の『孫子』であったことから、孫武と孫?は同一人物であるとか、孫武やその著書の実在性を疑う意見が強かった。銀雀山から2種の『孫子』が同時に出土したことから、長年の懸案は一挙に解決され、芸文志の記述の正確さが立証された。また、この墓から屈原の後の人といわれる唐勒の佚篇も出土した。『漢書』芸文志に「唐勒賦二十五篇」と記されているが、後世に一篇の作品も伝わっていなかったのである。あるいは『六韜』『尉繚子』『晏子』なども後人が偽託した書物と見られていたが、これらも前漢前期の墓から出土したことによって後世の偽書でないことが明確になった。

    

    このように近年発見される先秦漢初の佚書は、増加の一途をたどっており、これによってさまざまな問題が明らかになってきた。四書五経や諸子百家の著作など、今日の私たちが知る先秦期の典籍は実に大部にわたるように感じられるが、それらも九牛の一毛にすぎず、圧倒的多数のものが失われてしまっているのである。今後、もしそのうち幾つかでも目にする機会がくれば、私たちの中国古代に対する理解は一段と深まるであろうし、あるいはその認識を大きく変えねばならぬ事態さえ生じかねないのである。

    もちろん<佚書>は、先秦期のものに限って生じることではなく、後世の書物についても同様に起っている。発見もまた然りである。しかし、失われたものが多いだけに、先秦期の一つの<佚書>の発見は、他のどの時代のものにも増して、その意義が大きいといえるかもしれない。


図書館ホームページへ



Copyright (C) Waseda University Library, 1996. All Rights Reserved.
Archived Web, 2002