ふみくら:早稲田大学図書館報No.23(1990.5.30) p.24

新収資料紹介 18      ロシアの東洋学者

ビチューリンの著作


洋書係

 今回、早稲田大学図書館は19世紀ロシアの東洋学者ビチューリンの著作"Записки о Монголии"(1828),"ОписаниеЧжунгарии и Восточного Туркестана вдревнем и нынешнем состоянии"(1829),"История первых четырех ханов из дома Чингисова"(1829)の3冊を購入した。これらはビチューリンの早い時期に属する著作である。

ビチューリンについて
 ビチューリン(Бичурин,Никита Яковлевич)は、1777年ロシアのカザン県で生まれ、1853年にペテルブルグで死んでいる。初めは修道士であったが、むしろ東洋学者として有名になった。修道士の名はイアキンフ(Иакинф)である(因みにグラナート(Гранат))百科事典ではイアキンフで出てくる)。チュヴァシ人(Чуваш)の輔祭の家庭に生れた彼は、1799年にカザン神学大学(Казанская Духовная ака-демия)を終了、1802年にはイルクーツク神学校長に就任している。1807年に第9回ロシア伝道団の団長として北京に赴任、14年間にわたって滞在した。この間に中国語を習得、後に東洋学者として活躍するための下地をつくったと思われる。しかし、伝道団の長としては成功せず、団の事業紊乱の廉でその地位を剥奪され.1821年には北京を去っている。1823年からはヴァラムスキー修道院(Вааламский монастырь)に幽閉されるが、1826年に許され、ロシア外務省ァジア局に中国語通訳として勤務した。1828年にロシア科学アカデミーの準会員となり、以後多くの学術的著作を残した。
 ビチューリンの主要な著作は中国語史料をもとにした北・中央アジアのトルコ語系諸民族の歴史・民俗についてであり、また中国の歴史・哲学・文化にも及ぶ博学なものであった。この研究や翻訳のために彼が用いた中国語史料は広範囲にわたり、東洋学の先駆的な存在として位置付けられる。

"Записки о Монголии"(モンゴル誌)
                 <請求記号〔特〕 AE-5326>
ビチューリン(1777-1853)とその墓



タイトルページと夏服姿の中国人貴族


右絵:トゥルケスタンの少女

 1828年ペテルブルグで刊行。2巻本で4章立て(今同購入したものは1冊に合本)。第1巻めに1〜2章、第2巻めに3〜4章を収める。北京帯在の最後の8年間に自ら得たモンゴルに対する知識、情報を書き残したかったという動機が序章で述べられる。第l章は罪を得て帰国する際の北京から国境の町キャフタ(Кяхта,ロシア領)までの旅行記である。第2章はモンゴルについて人文地理的な情報をとりまとめ、当時のモンゴル人や中国人、その他の民族の風俗を描いた彩色挿図がおりこまれている。第3章はモンゴル民族の簡略な歴史を記述し、第4章では当時、中国がモンゴルを支配するのに用いた法律について言及している。最後に著者の通った道が明示された地図が付いている。
"Описание Чжунгарии и Восточного Туркестана в Древнем нынешнем состоянии"(古代と現代のジュガンリア、東トゥルケスタンの記録)
<請求記号 〔特〕 AE−5327>

 1829年ペテルブルクで刊行。オリジナルな著作ではなく複数の中国語史料から西域について翻訳・構成したものである。第1章では紀元前の西域諸国家、第2章では18世紀の西域がとりあげられている。彩色挿図によって当時の風俗をみることができる。
"История первых четырх ханов из домаЧингнсова"(チンギスー族の最初の四人の汗の歴史)
<請求記号 〔特〕 AE-5328>

 1829年ペテルブルグで刊行。前掲書と同じく中国語史料をもとにビチューリンが翻訳・構成したものである。『元史』をもととし、『通鑑綱目』をもって細部を補っている。四人の汗は、チンギス、オゴタイ、グュク、メンケであり、年代は1201〜1259年にわたる。
(文責:岩佐圭子)


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Archived Web,December 21, 1999