No.22(1990.1.15)p 11-13

本の周辺 13


我々と(西洋)音楽

笠羽映子(社会科学部助教授)



    去る10月24日の昼下がり、上野の都美術館脇に移築された旧東京音楽学校奏楽堂でささやかなコンサートとシンポジウムが開かれた。「ウィーン・モダン」と題されたこの催しは、日本アルバン・ベルク協会が目下来日中のウィーン国立歌劇場の音楽監督クラウディオ・アッバード氏を始めとする関係者の協力を得て開いたもので、部分的には、ウィーンでアッバード氏がオペラ活動のかたわら企画・実行されている同題の演奏会シリーズ(19世紀から20世紀にかけて同地で試みられた新たな音楽構造の見直し、再創造〔=演奏〕)を東京で再現したものでもあった。

    奏楽堂の落成した1890年は、画家エゴン・シーレの生まれた年であり、第1交響曲を作曲したばかりのグスタフ・マーラー(当時30歳)は未だブタペスト王立歌劇場の音楽監督だった……。「ウィーン・モダン」における主要な作曲家たち―アーノルド・シェーンベルク(1874〜1951)、アルバン・ベルク(1885〜1935)、アントン・ヴェーベルン(1883〜1945)― の活動は未だ始まっていない……。

    明治維新を契機に、我々日本人が殆ど「無」に近い状態から西欧の音楽文化を受容・吸収し始め、しかももっとも組織的に移入され、その後の日本の音楽文化に大きな影響を及ぼしたのが「教育としての音楽」であったこと(時期的に見れば、キリスト教の賛美歌や軍楽など、移入が明治以前に遡るものもある)については、もはや多言を要しないだろう。明治5(1872)年、「当分之を欠く」という但し書き付きで小学校の教科のひとつとして設置された「唱歌」という科目。その実施のために明治12(1879)年設置された音楽取調掛。そこでは伊澤修二を中心に、@東西二洋の音楽を折衷して新曲を作る事、A将来国楽を興すべき人物を養成する事、B諸学校に音楽を実施する事がまず主に取り調べられた。ほどなく四年制の音楽専門教育機関としての機能も果たすようになった音楽取調掛は、明治18(1885)年以降ともあれ音楽教師や音楽家を世に出すに至り、同時に音楽についての広範囲な調査研究を進めつつ、明治20(1887)年文部省直轄の東京音楽学校となった。

   奏楽堂はその後の日本の音楽教育の流れを、その成果(と見なされるもの)をじっと見てきたはずだ。当初の目論見からしても、完全に西洋以外の音楽が無視されていたわけでは決してないにせよ、西洋のそれほどの位置は日本の伝統音楽にすら決して与えられることのなかった―良かれ悪しかれ、近代日本文化の一般的な(少なくともアカデミックな)文化の歩みそのものであったような―その歩みを。

    開場から百年を経た舞台で、祖父の代からウィーン・フィルの首席奏者(しかもその祖父を同楽団に招聘したのはマーラー……)というペーター・シュミードル氏らによってベルクやヴェーベルンの作品が演奏されるのを聴き、これらの作曲家に代表される新ウィーン楽派と第2次大戦後の「オーストリアの作曲界」や「日本の現代音楽」などをめぐる討論を聴き、ウィーン国立歌劇場による『魔笛』の観客を待って明りのついた東京文化会館や国立西洋美術館前のロダンの「地獄の門」を横目に家路につきながら、音楽文化史におけるウィーンの人々にとっての百年と、我々日本人にとっての百年の重なり合いや相違を―簡単に比較考察できる事柄では無論ないが―あらためてあれこれ考えてしまった。

    音楽取調掛の報告書『音楽取調掛成績申報書』(明治22年刊、伊澤修二編著)の「音楽書類刊行の事」という項目には、次のような記載がある。

「明治十六年七月、 『音楽問答』及び『楽典』を出版し、各五百部を印刷す。同九年、更に『音楽指南』を印行に付す。是れまた不日基功を竣えんとす。『音楽問答』は、音楽の大網を問答に挙げ、初学の徒をして此学に入り易からしめるものにして、最も便利の書とす。(……)皆音楽伝習上必需の書なり。抑々本掛創置以降、音楽教科用書に乏しきは、伝習上一大所患なりしが、該書類印行に係るより、伝習上大に便宜を得たれば、また以て此事業の一層進歩を見るに幾るべし。」(注1)

    この500部印刷された『音楽問答』のうちの1部を本学図書館の蔵書の中に見出したのは数年前のことである。元来西洋近・現代芸術音楽史を守備領域とする筆者は―本学に奉職して以来、西洋音楽に限らず音楽文化関係の資料を充実していただきたいものだと思いながら、他方専修学科もないことではあるしというあきらめもあって―自分の研究資料はよそで調達することが多かったし、現にそうではある。しかし、西洋音楽史を研究する日本人としての自分の見直しという意味もあって、本来の研究の合間に少しずつ日本における洋楽受容史を調べるうちに、しばしば本学図書館のカードをめくったり、書庫の中を巡り歩くようになり、そのようにして『音楽問答』をはじめ、今となっては貴重な何冊もの書物と巡り会ったのだった。


標題紙


巻頭

    もっとも日本における洋楽受容史や音楽教育史については、すでにいくつかの優れた研究も行なわれており、『音楽問答』の成立事情、訳者瀧村小太郎、校訂者神津専三郎などについても『音楽教育成立への軌跡』(東京藝術大学音楽取調掛研究班編、音楽之友社、昭和51年)で詳しく考察されている(注2)。―当時「いくつかの書物から音楽に関する部分だけを取り出して訳し」、『西洋音楽小解』としてまとめた瀧村小太郎が、さらに恐らく隅々入手していたジョン・ジュースなる人物の問答体による音楽概念・用語の入門書を訳し(『約氏音楽問答』)、それらが全く異質な音楽体系の訳出・整備を急いでいた取調掛に買い上げられ、そのうち後者はほぼ時を同じくして翻訳・刊行の準備が進められていた他の二著と共に、校訂・調整を経て、とりあえず明治16年に刊行され、しかし『音楽問答』はほどなくその使命を終え、使われなくなってしまったこと―ただ、そうした事柄が判明した後も、早稲田の書庫に安住の地を見出したこのささやかにして幾多の苦労を秘めた書物を手にする度に様々な感慨を禁じ得ない。我々の祖先たちはこのようにして西洋の音楽文化を言葉で理解し始め、このようなものを経て現代に至っているのだ……。

    本格的な研究のためには余りにもわずかではあるが、図書館書庫にはさらに、『女学唱歌』壷(明治33年)、『幼稚園唱歌』(明治34年)、永井幸次・田中銀之助編『女子音楽教科書』巻之四(明治42年)、北村季晴編『中学音楽教科書』甲種巻四(明治44年)といった教科書や、陸軍軍楽長永井岩井撰曲『日本俗曲集』(明治25年)を含む3隻の愛好家向けの楽譜集、さらに和綴じの岩田通徳編述 『音律入門』(明治11年)などが眠っていたことをつけ加えておこう。

    また、これは音楽のみを扱った書物ではないが、美学に関する翻訳書として文部省編輯局から刊行されていた最初のものであると思われる『維氏美学』(ユジェーヌ・ヴェロン著、中江篤介(兆民)訳、上冊:明治16年、下冊:明治17年)も本学図書館に収蔵されている。その下冊第六篇音楽の第一章「音楽沿革ノ概略」では、「黒奴ノ歌」や「黄色人種ノ音楽」に対する「欧州音楽」の優位性が論じられており、当時西洋で非西洋の音楽がどのように見なされているかを知った関係者たちの思い、その後彼らが打ち出す様々な苦肉の策を考えると、ここでも感慨を禁じ得ない。否、感慨に耽ってばかりはいられない。その後西洋を追いかけ続け、「今や日本は例外で……」などと思うことが、経済大国と自他ともに認める(?)この国に皆無だと誰がいえるだろうか?ナショナリズム、エスノセントリズムに陥ることなく、自国に従来からあるものを含め多様な音楽文化を本来的な姿で受けとめようとする気持ちだけは、折に触れて自らを反省しつつ持ち続けたいと思う。たとえ今日の自分にとって差しあたりいかなる「音楽」が心地よく、必要であっても。


(注1)伊澤修二著・山住正己校注『洋楽事始(音楽取調成績申報書)』(平凡社、1971年)279頁参照。

(注2)他の参考書として、ここでは山住正己著『唱歌教育成立過程の研究』(東京大学出版会、1967年)を挙げるにとどめる。



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