No.22(1990.1.15)p 2


明治20年代の図書室






明治23年頃の学園風景。左端の二本煙突の建物が大講堂。
中央の建物はグリーンハウス。右は寄宿舎。


    明治22年5月、大隈重信の「寄付」により大講堂が完成した。学校内には従来木造校舎しかなかったところへ、初めて煉瓦造の建物が、総工費約2万円をかけて出現したのである。現在の8号館(法学部)のあたりであった。

    大講堂の2階は文字通り講堂として使われ、1階が図書室として用いられた。これも市島春城の談によれば、明治35年当時の学監室が書庫、教員室が閲覧室、編輯室が事務室だったとのことである。書庫の規模は、明治35年に完成した初めての図書館と比べると、五分の一以下、閲覧室も50人は収容できないくらいで、ことに事務室は日中でも薄暗かったようである。

    図書室は図書館ができるまでの十余年間、役目を果たしたのであったが、さすがに狭隘のためか、明治34年の時点では、以前出版部が使っていた、大講堂と「グリーン・ハウス」の間の小さな建物を閲覧室として使用している。

    後のことになるが、大講堂は大正12年の関東大震災の際に大音響をたてて崩れ去った。大震災で全壊したのは大講堂と大隈会館の土蔵のうちの1棟だけであった。

    大講堂の図書室時代には人事面でも充実が見られ、20年には初めて室長が置かれ、英文科講師今井鉄太郎が就任していたが、25年には初の専任職員として石井藤五郎が図書の受入から閲覧まで、1人で八面六臂の活躍を始める。
(「早稲田大学図書館紀要」30号より)

    「ふみくら」通常号では、今号より図書館の建物の歴史を表紙で紹介していきます。なお、「グリーン・ハウス」は16号で紹介しましたので、あわせてご覧下さい。




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