No.21(1989.12.5)p 6-7

資 料 保 存 へ の 道
―早大図書館のMさんへの手紙―

CAP
Conservation & preservation

CAP編集長 木部徹



Mさん−

    手紙と、『早稲田大学図書館紀要』の最新号をありがとう。どちらもじっくりと読ませていただきました。

    『CAP : 本の保存のための海外ニューズ月報』という小さな冊子を発行しているわたしが、縁あって、あなたのおられる図書館の方からの相談を受けたのは昨年の夏でした。図書館がスタートした明治期の出版物のマイクロ化と並行して進めている原資料の保存手当てで、わたしの知恵が借りたいということでした。こんなものでよかったらというので、あるかなきかの知恵を絞りました。同じころに、別の図書館が、同種の、しかし図書館としての主体性がない計画を始めようとしており、わたしはこの計画の杜撰さにあきれていたこともあって、結果的に早稲田の計画に肩入れするということになりました。経緯については、あなたもご存知でしょうから、ここでは繰り返しませんが、肩入れのひとつの理由が「名月赤城山」ならぬ「名月早稲田の森」であったことは、あなたのご指摘のとおりです。

    しかしながら、Mさん、わたしの肩入れの理由は「義理と人情」だけからというのではないのです。あなたの図書館が始めたマイクロ化計画は、当初はどこまで意識的であったかはともかく、わたしどもが繰り返しうったえてきた「資料保存の新しいパラダイム」を切り開く、重要な仕事の核になると思ったのです。その仕事とは、あなたのような若いライブラリアンが、自らのライブラリアンシップ(どのような日本語になるのでしょうか?)の全てを注いで悔いのない、「資料保存」という仕事です。

    だが、残念ながら、いまだに圧倒的な図書館人が、この仕事の意味を理解していない―そんな気がします。それは、Mさん、あなたが送ってくださった『早稲田大学図書館紀要』第30号(1989年3月)が、いみじくも証明しています。「資料保存」が、どこを探しても出てきません。

    『紀要』には「特集――図書館百年の歩み」とあります。新しい図書館の建設が始まったことは聞いていましたが、なんでも「総合学術情報センター」になるのだそうですね。その計画の概要が『紀要』に掲載されており、冒頭には奥島孝康館長の「新中央図書館を考える」があります。

    大学図書館は、奥島館長が言うように、「資料の公開」を前提にした「学習の場」であり、「資料の収集」を前提にした「研究の場」です。そしてそれらの「資料の活用」による「創造の場」でもありましょう。ここまではわたしも異論はないのです。だが、その資料が、自ら崩壊していくならばどうなるのか。「収集」した資料を「公開」して「活用」してもらおうというときに、その資料が「保存」されていなければ、「学習」も「研究」も「創造」もなにもないではありませんか。

    間違っていただきたくないのですが、ここでいう「資料保存」とは、単に資料を集め、それを整理して保管しておくことではないのです。「資料」とは、資料をいつでも利用できるようにしておくことです。ところが、単に資料を大事にしまっておくだけでは利用できなくなっている。遡及入力に多額の金を注ぎ、人を配してネットワークが構築され、端末のパソコンの画面上で簡単にロケーションが確認できるようになったとしても、そのことは、その資料がそこに「存在する」ということを保証しないのです。なぜなら、その資料はすでに書庫のなかで崩壊しているかもしれないからです。表札はでているが本人はいない、そんな状況が近づきつつある。いわゆる酸性紙問題がわたしたちに提起したのはこのことです。自壊する近代の紙資料を抱えた研究図書館は、いずれ図書館機能を果たすことができなくなる。そのまま巨大な紙屑カゴになってしまうからです。

    だが、日本の研究図書館は、今のところいっこうに「資料保存」へと動こうとはしない。いろんな理由があり、それをひとつひとつ挙げていくこともできますが、詰まるところは図書館人の勉強不足ではないのでしょうか。世界の図書館の動きを見れば、資料、とりわけ近代の紙資料の保存が緊急課題であることはすぐに分かるはずです。しかし日本の図書館人はコンピュータの方にばかり顔を向けている。「図書館のヒトは、たまには本でも読んだらどうですか?」と、わたしはにくまれ口を叩いたこともあります。プロの意識、ライブラリアンシップがないのではないか―。

    今回の『紀要』も、資料保存という観点からすれば、同じことが指摘できます。総合学術情報センター計画として「図書館の新世紀を迎えて」とありますが、資料保存政策も保存計画も無しで、新世紀もないのです。350万冊のWINEの構築の前に、350万冊のいったい何%が次の世紀に残るのか、いや、残さねばならないのか、そのためには何をいまやらなければならないのか、やってはいけないのか―それを明らかにすることが、早稲田大学のライブラリアンが今、総力をあげて取り組まねばならない緊急の課題ではないでしょうか。


    『紀要』に掲載されている新しい図書館の平面図を見ながら思い出したのは、1983年にアメリカで出版された名著『ザ・プリベーション・チャレンジ』(Carolyn Clark Morrow. The Preservation Challenge. Knowledge Industory Publications,New York)でした。

    この中に「保存計画を組織するための雛形」という一項があります。(p.85-90)。これは、規模と性格の異なる図書館の、それぞれにどのような保存部門を組織することがふさわしいかを、5つの雛形で述べたものです。早稲田大学図書館をとりあえず、「頻繁に利用される一般図書や現代の資料があり」「適度に利用される古い資料があり」「各部局図書館があり」「小規模ながら貴重書の部門がある」「大学もしくは大きなカレッジの図書館」という「レベル3」という雛形にあてはめてみましょう。どのような保存活動(Preservation Activities)が必要か等の詳細は原本を見ていただくとして、この活動を進める人員は10名、そして保存部門として必要なスペースは1,495平方フィートであるとしています。Mさん、一度、この平方フィートを平方メートルに換算し、そしてあなたの新図書館の平面図のどこかに組み込んでみてください。周囲を見渡して、10人のスタッフの調達が可能かどうかを想像してみてください(本当のところわたしは、早稲田大学図書館は「レベル4」か「レベル5」の、もっと大規模な図書館に該当すると思っているのです。当然、スペース、人員ともに増えます)。


    Mさん、「とても無理です」というあなたの溜め息が聞こえてくるような気がするのですが、しかしあきらめないでいただきたい。資料保存は百年戦争です。あなたの図書館はすでに明治期出版資料のマイクロ化という立派な資料保存計画をスタートさせています。そして、なによりもあなたのようなライブラリアンがでてきたこと―百年戦争の第一年の戦果としては上々ではありませんか。

    しかしながら、百年戦争を完遂するためには、あなたの図書館全体を覆う資料保存政策、保存計画そしてハードとソフトの両面を揃えた資料保存部門の設置が不可欠です。もちろん、政策をあずかるひとたちが「資料保存」のほうに目を向けることが大前提ですが。

    今すぐは無理かもしれない。でも、百年戦争の第五年目、十年目を目標にして、今できることから始めてゆけば、決して不可能な課題ではないはずです。もし、早稲田大学図書館が「資料保存」をきっちりと政策課題に組み込むことができたら、それは他の日本の研究図書館にとっての得がたい雛形となりましょう。

    Mさん、あなたとあなたの仲間たちのライブラリアンシップに期待するとともに、健闘を祈ります。





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