No.21(1989.12.05)p 2


明治期本に思う


濱田泰三 (常任理事・法学部教授)



    はじめてそれを見たのは、昭和57年、図書館長の職を拝命してまもなくのことだ。そのことはかねて聞いてもいたし、また実際自分の所蔵する古本の折り目のついた頁が、その折り目なりにぽろりと裂け落ちてしまうといったことを経験してもいた。黄ばんだ紙が、さらに茶色に焦げたような色にまで変色している本にも、何冊もお目にかかってきていた。けれどもこれは違った。

    早稲田大学図書館の60年の歴史を経た書庫の収蔵能力はとっくの昔にマイナスに転じていたから、とりわけ古い文献、それも新聞・雑誌資料の類は、学内のあちこちの号館に空きスペースを探し、押し込むようにして分散保管されていた。当然、利用もしにくい。やがて、手にされることもまれになり、ついにはどこに何が保管されているとの記録すらあやふやな状態になっていた。

    館長となった以上、せめて、本来図書館が収蔵しておくべきであった資料がどこにあるのかくらいのことは確かめておきたいと思い、古参の館員に案内を頼んでそうした所を見てまわることとした。そして、ある建物の一室の隅に積重ねられていた、明治何年のものだったろう、その、朝日を始めとする新聞合冊の山に出くわしたのだ。これはひどいですね、ヴェテラン館員がその一冊を開きながら呟いた。そしてわたしの眼にも、開かれたその一頁の紙面が、開いた空気にあおられるように、パラパラと、それこそ四分五裂してゆくのが見えたのだった。

    その印象は強烈だった。もちろん、そこにあったような著名新聞のマイクロフィルム化は行われており、それは別に収蔵されているのだから、資料の閲覧そのものは可能だし、おそらくそれだからこそ、そうした保存(?)のされ方で放置されていたのだろう。しかし、わたしの思いは、直ちに、新聞雑誌だけではない明治期に刊行された文献資料全体について及んでいった。酸性紙問題とひとくちにいわれているその問題が、わたしの心の中にわだかまり続けるようになったのはそのときからのことだ。

    本というものに親しみ始めてから、すでに50年を越えたわたしのようなものにとって、そんな風にして、崩壊し去ってゆく文献資料を眼にしながら、そのまま見過してゆくには何としても耐え難い思いがある。曲りなりにも本とよばれるものの何冊かを書いたことのあるものとして、それが作られ終るまでの仕事の手数と苦労というものがわかるだけに、これらの文化遺産の貴重さは痛切に感じられた。わたしが図書館長の仕事として命じられた最大のものは、システム化を含めた新中央図書館建設の課題だったが、その仕事に没頭してゆくかたわら、学術資料とするに足るものとしてはおよそ20万はあるだろうといわれる明治期文献の崩壊・消滅の危機が眼近に迫っているという思いは、ついぞわたしの胸から去ったことはなかった。マイクロ化か、それとも光ディスクなど新技術の発展を待つべきなのか、思い悩み、識者に問うたりもした。

    しかし、もし時を失すれば、日本の近代化の歩みを記した貴重な資料の全体を、いいかえれば歴史そのものを失ってしまうという危機感が、わたしに、あえてこの時期、明治期資料マイクロ化事業を開始することを決意させたのだ。その具体化を直前にして、わたしの任期は尽きたが、さいわい後任の奥島館長や紅野敏郎教授、それに雄松堂書店新田社長の理解と協力を得て、この仕事は大胆な一歩を踏み出すことができた。崩れかけた原資料はきちんと保存の策が講じられ、利用のためのマイクロフィッシュは次つぎと製作されているようだ。しかもその間に貴重な発見や有益なノウハウも得られつつあるときく。文化遺産の保存と利用という、図書館の果たすべき本来の役割にふさわしいこの仕事が、この先、いっそう大きく育ってくれるよう願わずにはいられない。



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