No.20(1989.11.10)p 8-11

本の周辺 12                                                                                              

後藤守一著『祖先の生活』とその周辺


<請求記号 リ11 10004>



柳澤清一(文学部教員図書室)


1

    本書は、敗戦を目前にした昭和19年11月20日、子供むけの戦時教養書として、大日本雄弁講談社から刊行された。本年3月、北陸に開店した一古書店の創業目録から発見し、本館で購入したものである。(B6版、本文136p。出版会承認う290162。許定価1円50銭。査定番号7ノ135智)

    表紙には、日本武尊ないし、若き日の“神武天皇”と推定される古代武人の絵が掲げられている。裏表紙には、小さな出版者マークがある。標題は、背に大きな活字で「祖先の生活 少国民の日本文庫」と印刷されている。そして標題紙には、“稲作”絵画を持つ有名な銅鐸(伝香川県出土)の挿絵がある。これは、古事記に記された神武天皇の“ご生業”を象徴したものであろう。また本文には、銅鐸・銅剣・埴輪・高床式倉庫など、多数の挿絵が掲載されている。これらはいずれも、国定教科書・読本の教材として、戦前の児童(少国民)には、なじみの深いものである。
    本書は、初版で5000部が印刷された。東京空襲を目前にした当時としては、第一級の刷り部数である。まだ実物を見ていないが、表紙の異なる別本がある。定価・発行日・部数などは同じである。出版会の承認番号が異なれば、別版と認められる。すると『祖先の生活』は、1000部が印刷されたことになる。これは驚異的な数字である。1月発行の『埴輪の話』にも、異表紙本や別出版写本がある。この種の異本は、出版統制にからむ特殊な事情によるのであろう。戦時中の出版については、まだ分らないことが多い。
    著者の後藤守一は、戦前から戦後にかけて活躍した著名な考古学者である。明治21年に鎌倉で生まれ、沼津中学・静岡師範学校をへて、東京高等師範学校地歴科を卒業。大正7年に東京帝室博物館雇となり、11年に監査官に昇格した。昭和2年には、博物館視察のために欧米へ出張。紀元ニ千六百年奉祝祭が挙行された翌年に博物館を退官(注)。17年には国學院大学国史学科教授となり、考古学を講じた。また、これに先立ち、東京文理科大学と明治大学の講師も兼ねていた。

  

    戦後は、24年に創設された明治大学考古学講座の主任教授に就任。文部省から栄転した杉原荘介とともに、日本考古学協会を設立し、学会の大御所として、その運営に尽力した。昭和21年から25年にかけては、戦前、神武天皇の“ご生業”とみなした弥生“稲作”を解明するため、文部省と共同して“登呂”の発掘を推進し、考古学の社会的地位の向上に大きく貢献した。35年に明治大学を退職。まもなく病に伏し、同年に逝去。享年72歳。

2

    本文は、児童にも理解しやすいように、やさしい文章で書かれている。著者は、“神武創業”時代の我が国に固有な文物として、とくに“銅鐸”をとりあげる。沖縄戦直後の国難にさいし、少国民は、“銅鐸”を創造した祖先の尊い“日本精神”に学ぶべきであるとし、次のような心構えを説く。

 「村をひらき、多くの村人が、安心してくらしていけるやうにしてくださつた人も、お国のために身をささげた人も、神様としてまつられます。和気清麻呂も、楠木正成も、豊臣秀吉も、吉田松陰も、それから、東郷さんも、乃木さんも、神様としてまつられた」

 「第一線で働いてゐる勇士が、『九段でまたあはうぜ』といひながら、よろこんで、一身をお国のために花と散らすのも、日本人だけです。外国の人たちは、日本人が勇ましく働き、お国に命をささげ、靖国神社の神様になれるのを、うらやましいといつてゐるそうです」

 「御先祖様に、私どももよい日本人として、お国のためにつくしてきましたと、心からお答へのできるやうに、心のきずなを、しつかりと引きしめて、あくまでも、強く正しく生きぬき、敵米英を撃滅するまで、大いに戦ひぬこうではありませんか」(下線引用者)」


標  題  紙

    これは、本土決戦の心の準備をうったえたものであろう。“天皇の赤子”とされた少国民が、やがて靖国の英霊となる運命を、たくみな筆さばきで暗示している。それは、沖縄戦(10月)のさなか、ラジオから流されていた“国防童謡”と、なんら変るところはない。

勝ちぬく僕等少国民/天皇陛下の御為に
死ねと教へた父母の/赤い血潮を受けついで
心に決死の白だすき/かけて勇んだ突撃だ
                          (山中恒著『ぼくら少国民』より)

    

3


    昭和天皇が亡くなり、平成の時代が始まった。近年、日本考古学では、新しい視点から昭和時代の考古学を見なおす、さまざまな動きが現れている。また、ここ20年来、戦前・戦後に活躍した研究者の著作集・目録・年譜、記念論集が、あいついで刊行されている。これは、一つに研究者の世代交代の時期を迎えていることによる。だが、少し見方をかえれば、マスコミ考古学になかば席捲され、膨大な資料に閉塞した学界の現状について、学史的な反省をうながす、格好の資料やツールが提供されている、とみることもできる。まもなく、後藤守一の逝去から30年を迎える。昭和の考古学界において、つねに指導的な立場にあった氏の経歴、業績の全体像は、いま元号とともに、しだいに忘れられようとしている。
    戦前、津田左右吉の『神代史の新しい研究』(大正2年)の刊行と同時に、これを批判し、国史学・考古学のガイドラインを提示したのは、黒板勝美の『国史の研究』(同年)であった。これを踏まえた、古代史・古代“日本精神”に関する、内務省・文部省のなかば公認の議論としては、版を重ねた和辻哲郎の『日本古代文化』(大正9年)がある。その考古学に係わる部分は、京都帝国大学の権威、浜田耕作の教示をえて執筆されたといわれる。これは、黒板が『国史の研究』で示した、“考古学がみだりに記紀に踏みこんではならない”とする、研究規範に準じた措置であった。
    考古学独自のガイドライン、すなわち学問としての考古学の一般的な範囲と目的は、浜田の『通論考古学』(大正11年)によって、体系的に示された。後藤守一は、これを参照し、列島考古学の概説書として、昭和2年『日本考古学』を著した。しかし、“国体”を論じることは避け、黒板・浜田流の考古学研究の規範を再説した。本書と姉妹書の『日本歴史考古学』は、文部省・東京理科大学の民間出版局に当る、四海書房から出版された。ともに、本邦唯一の考古学入門書として、華々しく宣伝され、高く評価された。『日本考古学』は、実に10版を重ねたといわれている。これは、考古学界では異例のことである。本書は、和辻の『日本古代文化』とともに、いわば黒板の『国史の研究』の考古学版として、長く権威を保ったのである。
    昭和11‐12年、考古学史上に有名な『ミネルヴァ』論争が起きた。これは、最初の国定歴史教科書の執筆者であり、
“南北朝正閏問題”で著名な喜田貞吉と、進化論の洗礼を受けた少壮考古学徒の山内清男が、石器時代の下限をめぐって、白熱した議論を戦わしたものである。この論争で勝利したのは、大方の予想に反して、津田右左吉流の合理的・科学的な思考を武器とした山内であった。このため、記紀神話を前提としていた“国体国史学”“国体考古学”の陣営は、憂慮すべき事態に陥った。これを境に、黒板・和辻・後藤による国史学・考古学の学説・研究のガイドラインは、紀元ニ千六百年祭までに“神武東征神話”の史実性について、新たな対応を余儀なくされた。
    昭和13年2月、『紀元ニ千六百年』が国民的な雑誌として創刊された。翌月には、国体を明徴にし、その精華をビジュアルに伝える『日本文化史大系』1(原始文化)が誠文堂新光社より刊行された。そして8月には、同書を参照し、改訂を加えたとされる、和辻の『日本古代文化』(第3版)が刊行され、“国体”への『ミネルヴァ』論争の波及を防止する。“古代史像”が、国民各層に提示された。後藤も、9月に新著「日本考古学」(『東洋考古学』 平凡社)において、浜田が支援した森本・小林等「東京考古学界」の学説を引用し、山内に対して、批判的な立場を明らかにした。
    こうした状況を睨み、山内は『日本遠古之文化』(補注付新版)および『日本先史土器図譜』の自費出版(昭和14年)をもって、科学的考古学の立場を鮮明にし、党派的な東京考古学会の姿勢を強く批判した。だが、翌15年3月の津田『神代史の研究』等の発禁を契機に、“科学的考古学”と“国体考古学”の対立は不問にされてしまった。山内は、戦後21年に東京大学に迎えられるまで、論文の執筆を中断し、一人沈黙を強いられた。
    昭和51年、紀元二千六百年祭の年を迎え、国を挙げての奉祝行事、記念出版がさかんに行われた。黒板会長のもと、考古学会でも、紀元二千六百年を記念し、「鏡・剣・玉に関する論説」の大特集(1〜6月)を行った。2月には平凡社から
『神武天皇』が刊行された。後藤は、同書に「考古学上よりみたる建国当時の文化」を寄稿している。
    この論文は、国民注目の出版物において、浜田亡きあと考古学界の代表者であった後藤が、“神武東征”の考古学的な解釈を正面から試みたものとして、特に注目される。この論文を境として、黒板が提示した考古学者の研究規範は、
“神武東征”の考古学的な研究により“国体”を明徴にし、“剣・鏡・玉・稲”に象徴される“肇国精神・国防思想”の宣揚を本務とする、と変更された。こうして、考古学は名実ともに、政府が8月に声明した“大東亜新秩序・国防国家”の建設を促進する、国家枢要の学問として認知された。そして偽政者は、この“肇国の考古学”と“国体国史学”の合体を謀り、神武・明治・昭和天皇三代の“ご創業”を宣揚する、戦時思想戦への周到な準備を完了したのである。
    翌16年、太平洋戦争が始まった。すでに帝室博物館を退職していた後藤は、17年に国學院大学の国史学科教授に就任する。“神道考古学”を提唱し、“神武東征神話”の証明をめざした大場磐雄や、樋口清之とともに、“肇国の考古学”を研究し、後進の育成に努めた。同時に後藤は、内務省・文部省当局の出版・思想・学術統制の強化に応じて、先の「東京考古学会」を中心とした翼賛考古学団体「日本古代文化学会」を組織し、考古学者の大同団結をうったえた。公開されていない同会の設立趣意書は、今日では想像もできないほど、“肇国の考古学”精神が華々しく宣揚されている。
その発起人名簿に、現代の考古学を築いた、錚々たる学者の名前が挙げられていることは、何を物語るのであろうか。
    これまでは、ほとんど注意されていないが、この「古代文化学会」は、若い学会員を動員して、山内の排除運動を組織的に展開した。後藤は、この運動の強力な指導者として君臨し、自らも『先史時代の文化』・『先史時代の考古学』(昭和18年)等の著書、論文において実践し、広く考古学会に同調を求めた。後藤は晩年、この戦時中の反学問的な行為について反省し、「盲目蛇におじず」の所業であったと述べている。ところが、その後藤守一は、戦時中、毎日のように特高と憲兵の監視、尾行を受けていたと伝えられている。だが、“皇道国史学”“肇国の考古学”の総本山の教授が、論敵の山内と同じ危険思想家として、当局に監視されることなどあるはずがない。
    不思議なことは、まだ他にもある。『祖先の生活』は、昭和19年刊の児童書である。その大半は戦災で焼失したであろう。実際、斉藤忠氏の「日本考古学史辞典」(昭和59年)が刊行されるまで、学史上この文献は存在しなかったに等しい。いまでも、ほんの一握りの研究者が実見し、その内容を知っているにすぎない。『後藤守一先生著作目録』(昭和35年)にも、そして『後藤守一主要著作目録』(昭和61年)にも、本書はなぜか採録されていない。両目録に、同じ論旨の『埴輪の話』が掲載されているだけに、不思議である。先の『神武天皇』掲載の論文も、これまで知られていないものである。戦後初の著作『日本古代史の考古学的検討』(昭和22年)で、大幅に改稿された初出論文なども、著作目録からは大半が除外されている。実質的に後藤が監修し、その弟子が編纂した『日本石器時代綜合文献目録』(昭和33年)でも、上述の文献はほとんど採録されていない。さらに後藤が、最後の国定教科書『国のあゆみ』の編纂に係わり、“記紀”の存続を主張する立場から執筆した小文があることなどは、なぜかまったく伏せられている。

4


    以上に紹介した『祖先の生活』・『埴輪の話』、二種の『日本考古学』、『神武天皇』、『先史時代の文化』・『日本古代史の考古学的検討』・その初出論文、そして紀元二千六百年奉祝国史ラジオ講演をもとにした『日本の文化』(昭和16年)等は、後藤守一の学問変遷を知るうえに、いずれも欠くことができない。そればかりか、欠落した日本考古学史を補い、戦前の“記紀”をめぐる文部省・内務省当局と、国史学会、考古学会の不即不離の関係性について、改めて問いなおす必要があることを、強く示唆するものである。
    戦時中の皇道的な学問に関連して、公職追放者を出した国史学会では、戦後、真摯な反省の動きがあった。これに対して、GHQによる“神話”排除の恩恵を受けた“肇国・国防の考古学”は、民主日本を象徴する登呂“考古学ブーム”の演出によって“国民の考古学”に変貌し、戦前の姿を覆い隠してしまった。これに類することは、ほかの分野でも、大なり小なりあるのであろう。考古学における戦前−戦後史の忘失は、必要な資料や情報が、当事者の死亡、個人的な都合等により、公開されていないことが、その一因となっている。したがって考古学のみならず、この時代に係わる、諸学問の学史的な再検討には、なお広範な古書・資料の収集が必要であると思われる。
    幸いなことに図書館の本館には、史学の厚い伝統に支えられ、明治・大正・昭和三代の歴史図書・資料が多数収蔵されている。これは早稲田の貴重な財産である。例えば、『紀元二千六百年』や『肇国精神』などの雑誌が、ほとんど揃っている大学図書館は、戦火を免れた早稲田を置いてほかにはない。ちなみに上述した大半の文献、および多数の関連図書は、まだ考古学科のない時代に所蔵されたものである。それらが、教職員・校友のたゆまぬ努力と、援助により架蔵されたものであることは、改めていうまでもない。
    明治・大正・昭和の和古書・資料収集の分野は広く、その奥行は深い。ここに紹介した一冊の図書は、子供向けの図書であるから、一般的には研究上の価値を認めないであろう。だが、ある図書の研究資料としての価値は、しばしば常識からは秘匿されている。そして時代と人がそれを発見する日を待ち望んでいる。小冊子ながらも本書は、そのことを、オンライン目録時代の司書に、無言のまま語りかけているように思われる。

注:退官は、昭和15年と記載している例もある。



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