ふみくら:早稲田大学図書館報No.17(1989.5.25) p.21

新収資料紹介 16

雑誌『新しき村』、その背景について

<請求記号 サヘ 971>
逐次刊行物係

 昭和63年度に購入したバックナンバーの中から、今回は復刻版雑誌『新しき村』について、その背景を紹介してみたいと思う。
 この雑誌は「新しき村」の機関誌である。武者小路実篤は理想の共生社会の創造を提唱し、大正7年宮崎県木城村大字石河内に入村した。村の面積は6町4反余りで、武者小路らは私有地の大部分を購入し、原野の一部も国から借りて開墾した。
 村内で生活する人を第1種会員、村外から物心の支援を贈る人を第2種会員と呼んだ。最初の6年間は大人111人が第1種会員で、他に客人5人がいた。
 生活費、医療費、旅費等日常的な支払いや土地購入、住居建築、開墾、電化工事等の特別な支払いは相当の額にのぼった。加えて武者小路は金のかかる計画を着想することにかげては名人だった。
 一方、収入は武者小路の文筆収入、我孫子の自宅の売却代金、寄付金等であった。大正12年には寄付金が減少したため、その分武者小路の負担が重くなっていった。やがて世間の関心は村から離れてしまい、とりわけ武者小路の離村後、会計係は月々の赤字の補填に苦心した。
 そうしたなかで大正9年、東京の村外会員3人が池袋郊外に曠野社を設立し、雑誌『新しき村』、や文芸雑誌『生長する星の群』の印刷と武者小路や倉田百三の著書等の出版を行なった。特に武者小路の著作に関しては、純益の半額を村に送ることで村を支援した。
 昭和14年には県官発電所のダム工事に伴い、村のうちの1町歩がダムの底に沈むことになった。かわりとして埼玉県毛呂山町に1町余りの雑木林を購入し、村の本拠地を移した。水没をまぬがれた土地を「日向の村」と呼び、本拠地の方は「埼玉の村」「東の村」と名付げた。しかし、移転に伴って多くの人々が各地に散って行ってしまった。
 二つの村は昭和23年と28年にそれぞれが財団法人となり、念願の自活の道を歩みはじめた。
 武者小路の理想は一応実現はしたものの、いわゆる「武者主義」のなかには危険をはらんでいた。大正8年に起きた内紛の火種もそこにあった。また、会員からの糾弾と汚名を甘受して武者小路が離村したのも、彼がユニークな思想家であり、かつ優れた統率者ではあったものの、農園経営に対する才能と見識を持ち合わせていなかったからである。彼は、農夫になれる人ではなかった。
 「新しき村」を知らずして武者小路を語ることはできない。雑誌『新しき村』はそのための最良の資料になるであろう。
 武者小路実篤は、埼玉県の「新しき村」の納骨堂(大愛堂)に眠っている。
表紙


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Archived Web,December 21, 1999