No.17(1989.5.25)p 11-13

本の周辺 11


サムエル・B・リンデ『ポーランド語辞典』



諸星和夫(文学部非常勤講師)



    1794年。ワルシャワ。ある日の午後、有名な共和図書館の奥まった一室で二人の男性が話を交わしている。そのうちのひとり、高名な『ポーランド語文法』の著者オヌフルィ・コプチンスキは、ライプツィヒから出て来たばかりだという、相手の背の高いひとりの青年を前に絶句していた。驚いたことに、来客は、斯界の権威者に向かって、いきなりポーランド語辞典を独力で編纂したい旨を告げたのである。コプチンスキは青年の才能に疑わしげであった。自信に満ちた来客の口からもれ聞こえてきたのは、ひどいドイツ語なまりの、どうみても辞書編纂者たらんとする人のポーランド語ではなかったからである。だから、それから21年後、大方の予想に反して青年の希望がかなえられた時、この碩学がどんな顔をしたかは見物であろう。四分五裂のポーランドの人々は、その日、民族統合の象徴ともいうべき、しかも、一外国人によって編まれた、初めての国語辞典を目にしたのである。


    サムエル・B・リンデ(1771−1847)の周辺

    この人、サムエル・ボグミウ・リンデは、1771年4月11日、トルンに生を受けた。父親のヨハン・ヤコブソン・リントは、これより以前1749年に当地に渡って来たスウェーデン生まれの鍛冶職人で、ポーランド、といってもはなはだゲルマン的な伝統の濃厚なこの都市で、それなりに成功をおさめ、1753年、バルバラ・アンナ・ランゲンハーンというドイツ移民の娘を妻に迎えている。サムエルはこの夫妻の間にもうけられた八人の子供のうちのひとりであるが、これらのうち成人に達したのは彼と、もうひとり後にグダニスクで聖職者となった兄のウィルヘルムだけである。こうした環境のなかで、リンデ家で話されることばは、まずドイツ語であり、肝心のポーランド語の方は父親の工房でときおり聞かれる荒っぽい職人ことば位だったという。サムエルが通い始めたギムナジウムでのポーランド人たちとの交友も、まもなく自身のライプツィヒへの留学で断ち切られてしまう。だが、皮肉なことに、このライプツィ行きこそは、リンデとポーランド語との関係のむしろ新しい出発となったのである。

リンデの肖像


    辞典編纂の初期

    リンデがライプツィヒに赴いたのは兄にならって聖職者になるためだった。が、そのことが気にそまないでいる間に、ひとつの偶然が青年を思いもかけなかった方向へ導いてゆく。神学研究のかたわら、同時に文学部の授業にも顔を出していたサムエルに、かねて青年の才能を高く評価していたウイルヘルム・エルネステイ教授が、同じ大学のポーランド語講師の地位を引き受けるように勧めたのである。知識の不足から二の足を踏む青年に鼓舞激励を与えたばかりか、授業用にと自分の講義室まで提供して、ついにこの新しい仕事に着手させたエルネステイ教授の熱意に、だから、私どもはリンデともども感謝しなければならないだろう。講師に就任したリンデは、ポーランド語の知識を確固たるものとすべく、自ら学習に励む。手元にあったトロツ編のポーランド語=フランス語=ドイツ語辞典が唯一のたよりだったが、これは所詮対訳辞書である。そこで、彼はこの辞典から同義語を拾い出し、逐一カードに書き留める。
    トロツに見られない語は読書やネイティブ・スピーカーからの聞き書きで補足した。リンデの辞典編纂の仕事は、こうして、当初、きわめて個人的な欲求を満たすために始められたのである。


    国語辞典の構想

    さて、講師の仕事にも目鼻がつき、例のカードも次第に厚みを増していったある日、リンデの身の上にその後の生き方を決定するようなひとつの事件が起こっている。ポーランド語の勉強にと『大使の帰還』のドイツ語訳に従事していた彼を、その作者であるニェムツェーヴィチが訪ねて来たのだ。ポーランド啓蒙主義の代表的な作家との交流から、リンデの世界は急速に当時のポーランドの現実へと接近してゆく。気がついてみれば、ライプツィヒには、ほかにも多くの進歩的な人々、イグナツィとスタニスワフのポトツキ兄弟、フーゴン・コウォンタイ、フランチーシェク・ドモホフスキ、それにあのタデウシュ・コシチューシコまでがひそかに異国の客となっている。これら亡命者たちとの語らいの中から、リンデの心にいつしかポーランド語辞典編纂の意欲が育っていった。ポトツキ兄弟の友情を受けて、初めてコプチンスキの文法を識り、またドレスデンに赴き、辞書編纂法に関してアーデルンクの指導を受けたりしているものもこの時期である。リンデのライプツィヒ時代は1794年に終わりを告げる。この年の春、ワルシャワが急進派に制圧され、名前をゴットリープからポーランド風にボグミウと改めたリンデも、コウォンタイらと運命をともにする。この最初の短いワルシャワ時代のリンデは、まぎれもなくジャコバン党員のひとりだった。


   亡命者として

    まもなく反動の嵐が吹き荒れた。ポーランドは今やヨーロッパの地図上から完全に消えようとしている。首都を離れ、ウィーンに難を避けたリンデは、ここで本格的な辞典編纂の仕事にとりかかる。大貴族オソリンスキの図書館が彼の仕事場となった。大網もこの頃にははっきりしてくる。それは以下のようなものである。

1.16世紀から19世紀初頭までのポーランド語を漏れなく含むこと

2.文語のみならず口語レベルにも目を向けること

3.他のスラヴ語を比較材料として併載すること


    ウィーン時代のリンデは専ら書斎の人であったが、同時にオソリンスキの導きもあって社交家であり、内外の有力な人々との交際にも余念がない。アダム・チャルトルィスキ、タデウシュ・チャーツキ、スタニスワフ・スタシツらの名前が続々とその交友名簿に登場するのがこの時期で、その中には当時の著名なスラヴィストのひとりユゼフ・ドブロフスキイやヴーク・カラジッチを始めとする多くの学者知識人の名前も認められる。1801年には前年に設立されたワルシャワ科学愛好者協会の会員に推され、リンデの名もその辞典とともにようやく人々の口に上るようになる。

    1803年11月、リンデはウィーンを発って、再度ワルシャワに上る。進行中の辞典の評判が一役買って、ワルシャワ・リツェウムの学長に就任することになったからだ。これには、当時ワルシャワを支配していたプロシャ政府の意向が働いていたと言われる。彼らは学長の椅子にすわるべき人物に、新教徒で、しかも、ドイツの大学の出身者が望ましいと考えていたからだ。リンデはここでも強運に恵まれた。一緒に携えていったカードの山は、この時すでに゛wieza"のところまで進んでいる。


    完成、そして出版

    1804年2月、リンデは『ポーランド語辞典の概要』なる小冊子を公刊する。ここには現在進められている辞典編纂の意義と性格、編集方針が詳細に述べられ、読者は、その第1巻が本来は翌1805年に刊行予定であった旨を知ることができる。辞典は最終的に全6巻となったが、最初の計画では4巻構成であった。このパンフレットは言うまでもなく予約購読者の募集を目的に刷られたもので、翌3月にはそのドイツ語版が現れている。出版をひかえて、財政上の困難が続いていた。当時、リンデの手元にあったのは後援者たちからの5000ターレル。それに対して出版の費用は、ざっとその三倍は必要とされた。リンデは予約購読者からの送金を持ちつつ、一方で絶えず金策に走り、ある時、あろうことか、一等に馬が当たるという景品つきの福引を思いつく。

    「まずしい国だ。学術書の出版が馬の福引に頼らねばならんとは。」
    
    当時、ワルシャワ・リツェウムで気象学の教授をしていたアントーニ・マーギュルの言葉だ。

    第1巻は印刷が1806年に開始されている。仕事場には当初ピヤール教団の印刷所が充てられたが、教団との契約はそのままに、施設はまもなくサスキ宮殿にあったリンデの仮住まいに移ってくる。ちょうどその頃、勢いに乗ったナポレオン軍がポーランドの首都に到着する。そして、フランス皇帝の玩具のごときワルシャワ公国の成立。リンデは公国政府から学校施設、図書館、博物館、それに彼の印刷所等の一切をサスキ宮殿から撤去するよう命ぜられて、戸惑い、悲嘆にくれるが、ここでもスタニスワフ・ポトツキの機転で辛うじて救われる。1807年12月、ついに第1巻が現われる。都合1200部刷られた辞典の予約購読者への発送と販路の開拓が、またひと仕事である。なかでもリトアニアとロシアへの発送が困難をきわめた。ヴィルノへ向けて辞典を積んだ荷車が、ときどきパリを経由して届けられた。その一部が破損したり、思わぬ人の手元に運ばれたり、ペテルブルクの帝国科学アカデミーの注文分が迷子になったりした。第2巻以下が1808年の末頃から現れ始める。そして、第3巻が09年、第4巻が11年、第5巻が14年、様々な困難を乗り越えて、ついに最終巻が1815年に配本される。


    むすび

    リンデの辞典はポーランドの文化史上に今なお慄然と輝いている。それはポーランド啓蒙主義の最も誇ってよい学問的成果のひとつであり、以降の国語辞典編纂法の上にも計り知れない恩恵を与え続けている。確かに、今日から見れば致命的とも言える泣き所がある。その最たるものは、当初のリンデ自身の目算に反して、この種の国語辞典には不可欠な素材としての中世期の写本古文献が除外されていることであり、もうひとつ、引用文例の不注意な改竄も褒められない。とはいえ、その後、19世紀を通じてリンデを越えようとするすべての試みが失敗に終わったのを見れば、それだけで、この辞典の確かさが納得されよう。同時代の人々がこの快挙をどんなに歓呼をもって迎えたかは申し上げるまでもない。

    「リンデの辞典が世に出てからというもの、私にとって、それを持たないのは手を持たないようなものだ。」

    1808年2月11日、家族のひとりにあてた歴史家レレヴェルの手紙が残っている。

    辞典が完成した年の1815年3月7日、リンデの偉業を称えるべくワルシャワのイギリス・ホテルで出版記念祝賀会が催される。ニェムツェーヴィチが挨拶に立つ。詩人はライプツィヒでリンデを「発見した」のはこの自分だと言ってはばからない。編纂のあいだ付きっきりでリンデを助けた協力者のひとり、フルィデルィク・スカールベクは祝賀会の模様をこう伝える。「御馳走は、まじりけのない民族的なものでいこうということだった。ただ、蜜酒とビールにハンガリー産のワインが加えられている。食卓の真ん中にはケーキやクッキーのかわりに辞典の全巻が並べられた。祝辞の後、リンデの健康を祈って盃をあげる。」

    ところで、祝賀会場になったイギリス・ホテルは、1812年、ロシアから逃亡途中のナポレオンが投宿した宿として知られている。没落へと歩を進めつつあった皇帝は、この時、あるポーランド人にむかって有名なせりふ「偉大さと滑稽さのあいだは一歩あるのみ」を吐いたのである。偶然だが、これはリンデの仕事を言い当てている。


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