No.17(1989.5.25)p 8-10



シュタイナー著作集に寄せて



子安美知子(語学教育研究所教授)


    Rudolf Steimer(1861-1925)の400巻ちかい全集が本学中央図書館に入庫したのは、つい3年前のことである。日本ではじめてシュタイナーの思想にふれ、シュタイナーの設計したゲーテアヌムを実地に訪れ、圧倒的な感動を受けて帰った人物が、早稲田大学の故今井兼次教授であったことを思うと、この大部な善著作が今井教授の亡くなる直前に早大図書館に届いたことに、何か運命的なものを感じる。

    シュタイナーは、だから日本ではまず1920年代に建築畑の人に知られたわけだが、その後戦争をはさんで、一部の教育家、神秘主義者たちなどのあいだで話題になり、やがて70年代あたりから「シュタイナー学校」の存在を通じて広く一般に注目されるようになった。日本の学校教育の問題を反映して、日本の世論はシュタイナー教育のいわゆるユニークさという現象面にばかり目をうばわれる状況が続いていたが、そのなかで背景の理念をなすアントロポゾフィーという思想にも取りくもうとする関心が徐々にめざめ、ここにようやくシュタイナーの全体像をめぐる研究活動が始まったのである。そのとき、いちはやく本学図書館に資料がそろえられた事実は、まことによろこばしい。


往年のR.シュタイナー
哲学、宗教学、美学、教育学、ドラマや詩を含む創作から建築、農業、医学にわたる自然科学、この広汎なテーマの著作のみならず、生涯にわたって行った6000回の講演まで収める大全集は、どのようにしてできあがったのだろうか?その一端を垣間見てみよう。

    ヨーゼフ・キュルシュナー教授という人がいた。19世紀の優秀な出版家として今もその名を知る人が多い。彼がぼう大な「ドイツ国民文学全集」を編んだとき、ゲーテに関して当時の権威であったカール・ユリウス・シュレーヤー教授に支持を仰いだのだが、シュレーヤーはゲーテの自然科学関係の著作を、ルードルフ・シュタイナーという男に委せよ、と言ったのであった。シュタイナーはまだ21歳の若さで、無名の学生だった。が、出版家キュルシュナ−は、この男にただちに異常な才能を認め、その後もつぎつぎに各方面の仕事を依頼した。さらには別の出版仲間のシュペーマンにシュタイナーを紹介し、やがて1886年シュタイナーの処女作となる『ゲーテ世界観の認識要網』をシュペーマンが出した。

    少なからぬ出版家たちがシュタイナーを追うようになり、『自由の哲学』(1894)、『フリードリッヒ・ニーチェ――時代への闘志』(1895)、『ゲーテの世界観』(1897)が、あいついでエーミル・フェルバーの手で公にされた。有名なコッタ出版社はショーペンハウアー、ジャン・パウル、ウーラント、ヴィーラントの各著作集を、シュタイナーに編纂させ、マックス・ブルン社はシュタイナー自身の論文を活字にするようになった。こうして1900年の声を聞くやベルリンのシュヴェッチュケ社が、後年シュタイナーの代表作とされるようになる諸著作を刊行しはじめるのである。

    1904年『テオゾフィー―超感覚世界認識と人間規定への入門書』によって、シュタイナーの思想の根幹はようやく世にあきらかとなった。

    1900年以前には、彼は自身の世界観をあからさまに語ることに、意図的に慎重な態度をとっていた。見知らぬ人の死を予知するような経験を幼時からしていたシュタイナーは、時代が自然科学思考によってのみ世界を解明する方向に動きつつあるのを放置できなかった。五感の知覚によらない世界が確かに実在する、との認識を、しかし彼は周到に準備してから発言するつもりだった。 だから初期の著作は、あえて自然科学関係のものだったのだ。そしてまたいわゆる正統派哲学史にのっとるものだったのだ。ただその中でゲーテの自然科学がいかに有機的に生きたものであるかを示し、また過去の哲学者たちへの論理的反論を通して、人間の「自由」が証明されることをあきらかにした。


焼失以前の第一ゲーテアヌム

    従来の学問形式にとどまりつつ新しい内容を語るという、この慎重姿勢が1900年を境にして堂々と大胆になる。彼ははっきり「超感覚世界」という言葉を公の場で口にする。『テオゾフィー』では、人間が肉体をもつ物理世界と、感情のとりこになる魂世界と、永遠の法則を認識しうる精神世界との三重性の中にいることを示し、物理世界以外は「超感覚世界」だが、修業によってこれをも知覚することができる、と説いた。そして人間の自我は、肉体が亡びても精神世界に帰り、また次の肉体にやどって地上に生きる日がくる、という転生論までくりひろげた。

    『テオゾフィー』は、版を重ねに重ね、今日なおシュタイナーを学ぶ人が最初にひもとく入門書であるが、世紀の初めにひとたびこれを発表してからというもの、シュタイナーの著作・講演のすべては超感覚世界を前提とした立論になりかわる。まかりまちがうと無責任なオカルトに堕しかねないことがらを、現代人のさめた目で納得して受けいれられる修業方法、それが緊急な課題だと考えて、彼は1904年から翌年にかけて『いかにしてより高次の世界の認識を得るか?』を著した。『アカシャ年代記』(1904−1908)、『神秘学概論』(1910)の両著では、彼の超感覚描写は地球自体の転生論にまでおよび、通常の自然科学論理ではとうていつかみえない叙述が並ぶばかりとなる。

    1910年代にはいると、個々の人間が転生をくりかえす際に背負っていくもの、つまり前世から未来世へのカルマといったものへの考察が多くなり、これを舞台劇の形式で表現した四部作『神秘劇』(1910−1913)が著される。この種のやや文学的なカルマ探究は、ゲーテの「ファウスト」や「メールヒェン」をめぐる講演・解説などの形でも頻繁におこなわれる。


スウェーデンのシュタイナー村:
階段式浄水路
    一方、日本で特別な注目をあびることになった教育関係の著作は、1907年の『精神科学の立場から見た子供の教育』と題する講演記録に始まり、1919年のシュタイナー学校創立に際しての教育研修三部作へと展開している。2週間の集中講座で、午前中は『教育としての一般人間学』、次に『教育芸術、その実践的方法』、そして遅い午後『カリキュラム討論』となった研修内容が、現在でも世界450校のシュタイナー学校教師たちに必読のものとなっている。

10年代には、第一次世界大戦をはさんでシュタイナーの言及する範囲が広がり、オイリュトミー、言語造形等、新しい芸術を誕生させたり、ゲーテアヌムのような建築様式の変革につながったりする講演・論文がふえてくる。敗戦国ドイツの経済困窮と社会不安に直面しては、シュタイナーは、1919年の『現代と未来の生の必然における社会問題の核心』をはじめとする精力的な活動をした。社会機構を、A=法と政治、B=経済、C=精神と文化の三要素に分け、これにフランス革命のスローガン「平等、友愛、自由」を結びつけるとすると、「平等」は A にのみ、「友愛」は B にのみ、「自由」は C にのみしか具体的に通用しない。法や政治に友愛がはたらくと堕落が発生し、自由がまじりこむとカオスが生じる。また経済や文化に平等をあてはめると、それは実際には悪平等となって人間を束縛する。社会三層構造とよばれる、このユニークな改革論は、右からは左翼的、左からは右翼的、と非難されるものであったが、ごく最近になって現実の政治家などから、むしろ非常に示唆にとむ提案として見直されつつある。

    1925年にこの世を去るシュタイナーは、20年代にはいるとすでに晩年になっているわけだが、ここで彼は従来の諸領域にわたる活動をいっそう展開すると同時に、新たに医学と農業への考察をおこなっている。1924年の農業講座記録、25年のイタ・ヴェークマンとの共著『精神科学認識によって治療技術を拡大する基礎』は、生涯の最後を飾る二大業績となった。64歳という享年を覚悟していたのかどうか、シュタイナーは、死の2年前から自叙伝『わが人生の歩み』を、週刊「ゲーテアヌム」に連載し、これは死後2巻本にまとめられた。

    さて、いわゆる学者の肩書をつけてかまわないシュタイナーだが、その業績をもとにして現実の社会にさまざまな実践活動がひろがった、という点では彼はかなり型破りな学者である。シュタイナー学校が生まれ、障害者村がいとなまれ、病院、薬局、農場がふえている。建築・インテリア・デザイン、衣服、食事の分野にま彼の思想を浸透したものがある。さらには利子・利息をたがいの話し合いで決めたりする銀行もある。つまりは全体として大きな世直し運動になろうとする試みなのだ。そのいずれかに、ふとした機会に出会う人は多い。

    まずは何かの社会現象に出会って、その背後にシュタイナーの思想があると知る。ではその思想を読み解こう、と思って彼の著作集の前にたたずむ人は、ぼうぜんとするだろう。何から手をつけてよいのか―。もちろん、各自の出会った分野からはいってよいのである。ただ、次の段階で少なくとも心がけて欲しいのは、あるバランスをとりつつ彼の全体像をもつことである。1900年以前の著作と以降のそれ、社会実践面と個人の内的修業面―これらが片面にのみかたよることのないように、と、私自身15年ほど牛の歩みで取り組んできてのささやかな助言である。



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