No.17(1989.5.25)p6-7

本の周辺 9                                                                                              

雑誌『蒲田』と松竹モダニズム



岩本憲児(文学部教授)



『蒲田』の表紙

鈴木伝明 柏美枝 龍田静枝 田中絹代
大正15年7月号 昭和2年11月号 昭和4年11月号 昭和7年2月号



(1)

    戦前の映画雑誌を体系的に収集している公的図書館はほとんどない、と言ってよいくらいだろうが(日大芸術学部には珍しいものがある)、わが演劇博物館はさすがにタイトル数の豊富さで貴重だ。
    しかし、その演劇博物館にもまるで欠けている分野がある。それは大正末期から昭和初期にかけて創刊されたおびただしい数のファン雑誌である。ファン雑誌のみならず、業界紙や評論誌、研究誌等々がこの時期に輩出している。その中の一つでいまも生き残っている唯一の雑誌が『キネマ旬報』であり、当時のファン雑誌の代表格が、むろんいまはなき『蒲田』だった。
    『蒲田』は、あの『蒲田行進曲』(つかこうへい作・深作欣二監督の映画)の主題歌に歌われた蒲田であり、松竹映画の撮影所が創設された場所である(ちなみに、芝居や映画の『蒲田行進曲』は松竹蒲田とは全然関係がない)。蒲田に松竹(正式には“松竹キネマ合名社”)の撮影所ができたのは、大正9年(1920)6月のことだった。
    それからちょうど2年後、雑誌『蒲田』が誕生した。創刊は大正11年7月号。発行所は松竹蒲田作品後援会(のちに蒲田雑誌社)、編集発行人は橘弘一路である。橘弘一路や編集生活の裏話については、岡部龍の「ファン雑誌の仲間たち」(佐藤忠男編集『映画史研究』No.15,1980)に詳しい。

(2)
   『蒲田』創刊号はわずか24ページの小冊子で、編集人には橘の他に山本緑葉、顧問として古川緑波の名が並んでいる。構成は前半が写真版で人気男優・女優のポートレイト、近作映画の紹介、そして後半がこのあと人気監督になっていく牛原虚彦や伊藤大輔らの短文、あるいは当時の人気男優・勝見庸太郎、顧問の古川、のちに『日本映画発達史』の大著をライフワークにしていく田中純一郎らの文章となっている。
    筆者が『蒲田』を特に必要と感じたのは、かつて「小山内薫と映画」という小論を書いたときに、あれほど映画と関わりを持っていた小山内の映画論が、既刊の著作や著作集にはあまり見当たらないことに不審を抱いたからだった。小山内の映画論は小雑誌や新聞等にまだ未発掘のまま残されているのではないかと思ったからである。
    事実、『蒲田』の大正12年7月号には小山内薫の「ランファン・プロヂギュの悲憤」というエッセーが載っており、この号には久米正雄、武林無想庵らも寄稿している。松竹キネマに招かれた小山内と『蒲田』の結び付きが強いのは当然として、小山内はこの雑誌の“賛助”に名を連ねてもいたので、彼の人脈から、文壇人が時折寄稿していて甚だ勝手なことを言っているのが面白い。もっとも、この1号前(6月号)には人気俳優・諸口十九(つづや)・作家の鈴木三重吉・中山太陽堂支配人の坂本栄次郎らと男4人が腕を組んで、颯爽とした“ハイカラさん”の小山内薫が写真版に登場している。なお、『蒲田』の昭和4年3月号は小山内薫追悼号とも言えるほどで、シナリオ作家の北村小松ら6名の筆者が思い出を書いている。
(左から)坂本栄次郎、鈴木三重吉、小山内薫、諸口十九

(3)

    さて、『蒲田』はこれまでのところ100冊余が集まった。早稲田大学所蔵分は創刊号(大正11年7月号)から昭和8年8月号まで、かつ完全に揃っているのは昭和3年、4年、6年という虫食い的ありさまだ(全体では160冊、昭和10年廃刊)。
    ファン雑誌とは言え、経営がすぐに軌道に乗ってからは80〜100ページだて、筆者にも有名人を揃えて、ファン雑誌の中では群を抜いて内容のある雑誌となった。いまで言えば、文化的香りを味つけした企業のPR誌に近く、映画が大衆の新しい文化として憧れを持って受容され始めた時代の先端的雑誌なのだった(公称10万部)。
    いまの松竹のイメージと違って、いかに当時の松竹が“モダーン”な印象を与えたかは、この雑誌が当時の一般語である“活動写真”を使わず、“映画”という語を使っていることからもわかる。“映画”は当時の新語であり、“活動”または“活動写真”という呼称が消えていくのはやっと戦後になってからである。
    萩原朔太郎は「蒲田の恩を忘れるな」(『蒲田』大正14年7月号)というエッセーの中で、蒲田映画の新しさに大いなる期待を寄せ、「……、日本映画の最初の黎明を作ったものは蒲田であり、この点で、皆が蒲田に感謝しなければならない。/蒲田映画が出来てから、日活始め他の会社が、始めて映画劇の正道を知り、こぞつてその真似をするやうになってきた。」と、持ち上げている。
   文壇人との関わりはともかく、映画史的にも風俗史的にも『蒲田』がきわめてて貴重なのは、大半のフィルムが消失してしまった現在、このような雑誌に掲載された写真や文章を通してしか、作品の雰囲気や情報を得る方法がもはやなくなったからである。それに、毎号表紙を飾る女優や写真版の中のニューフェイスたち、若き日の牛原虚彦以下、島津保次郎、大久保忠素(小津安二郎の師に当たる)、斎藤寅次郎、北村小松、野田高梧ら監督やシナリオライターたちの文章を目にするだけでも楽しくなってくる。
    『蒲田』と共に入手した端本には、『蒲田画報』『蒲田花形』『蒲田倶楽部』『活動花形』『活動公論』『キネマ』『キネマ世界』(2種)『新帝キネ』『現代映画』『ザ・ムービー』『大日活』『日活映画』『新日活』『日活画報』『日活』『日活花形』『活動写真雑誌』と多種にわたるが、これらはまだ数冊から一部ずつしか集まっていない。はたして『蒲田』だけでも全巻揃う日がくるのだろうか。(文学部教員図書室蔵)   



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