No.16(1989.1.25)p 3-5

本の周辺 8                                                                                              

「  視  触  」


丹尾安典(文学部助教授)


    金曜の朝、神田の古本市にでかける。寝坊なので、日本文学の雲英教授のように、会場前から古書会館の階段に列を作ることはない。それでも、なんとか11ころにはたどりつき、一時間ばかりうろついて、大学にむかう。
    “ぼうず”のときは、途中三省堂に立寄ることもあるけれど、新刊本はどうもつまらなくて、10分ばかりで店を出る。
    書籍の内容についていうのではない。本にも表情というものがあって、いわば、その顔がなんとも味気ないのである。浮薄な自己顕示が声高で、なんだか都美術館の公募展を見たあとのような疲労さえおぼえる。
    美術の方面では、たとえば“クールベの重厚なマチエール”だの、“藤田嗣治のすべらかなマチエール”だの、という。
「画肌」などと無趣味な訳語があてられることもあるが、「マチエール」とは物質とか材料をさし示す言葉だから、美術用語として使うにしても、絵にかぎってもちいる義理はない。「ブロンズと木とでは、マチエールとしての表現効果が違う」というふうに、彫塑についてだって使用してよい。
    目はマチエールを賞味する。
    もし、銅版画より木版画が好きだと言ったなら、それは、マチエールの好みを語っているのである。
    口に放りこむもののうまさが、甘酸鹹苦辛の五味とは別に、舌ざわりや歯ざわりと関係するように、美術品の魅力は、線や色のほか、 素材 ( マニエール ) の目にふれてくるありよう、いわば「視触」と密接にむすびついている。
    触覚からうけとるメッセージを、ぼくは軽視しない。
    ハミッシュ・フルトンという英国のアーティストがいる。自分の歩いた山道や路傍の石などをモノクロの写真にして、このあいだに京橋にある秀逸な現代美術画廊「かんらん舎」に並べた。荷解きを手伝った時に、フルトンと会った。手のにぎりようが、それまで幾度となく体験してきた握手とは、まるで違っていた。この男が足の裏でつかんできたものを、手を通して伝えているかのようであった。そこには、フルトンの重い額縁を支えたのと同じ手ごたえがあった。瞬間、ぼくは、たしかに、作品そのものの重量をからだに感じた。
    触覚に対して訴えかけてくるものは、ときに、言葉以上にさえ、雄弁に語る。
    祖母は去年逝去した。しばしば意見されたのを思い出す。初等教育を受けただけのばあさんだったから、反論は実にたやすかったが、その直截な明治女のもの言いに気圧されて“論争”におよぶまでもなく、ひきさがったりした。せまってきたのは言葉の内容ではなく、人間のマチエールであった。
    くどくどしく、つまらぬ私事を書きつらねたのは、おおむね中味ばかりが云々される「本」だって、そのマチエール視触が問題にされてよいと思ったからである。むろん、ぼくはさきに、新刊本は味気ない、と書いたのは、わが眼に感ずる「視触」のことを言ったのである。ただし、購読者からすぐに見放されたピカピカの本が、古本屋のおやじの手に渡り、茶色くなった本のあいだで、牢名主の前のチンピラみたいにかしこまっている三枚目的な味は、嫌いじゃない。もっともこれは、祖母の重厚な「時の地塗」の前で、もろくもひび割れた、にわか仕立ての自己のマチエールとひきくらべての共感とみるべきか……。



    図書館に万国博覧会関係の文献がそろってきた。
    文学部教員図書室で、館員の雪嶋さんが、そのカード登録を夏休みにやっていたから、これさいわいと、一週間ばかり、ためすがめつ見つるやら手にとるやら、大いに仕事の邪魔をした。いずれも、万博開催当時の貴重な書籍だ。
    アール・デコで名高い1925年の博覧会の報告書十数巻を、そろいで見ておいてよかったと思う。カードだけの情報で、本庄に請求するなら、きっと必要な巻だけ取りよせるに違いない。すると、あの素敵な背表紙は目に入らない。全巻そろって書棚にたち並ぶとき、各巻の背表紙の暗号みたいに記されていた文字が、横にArts decoratifs &industriels modernesと浮かびあがる。その着想や洒落た書体そのものが、なまじの解説よりは、ずっと豊富にアール・デコのなんたるかを語る。

『千九百年仏国巴里万国博覧会関係書類写』

    水晶宮で知られた1851年のロンドン万国博をたどる好著“Tallis's History and Description of the Crystal Palace”(6 vols)、1862年のロンドン万国博に展示したオールコックの日本美術品も掲載された色刷石版豪華図録“Masterpieces of Industrial Art and Sculpture at the International Exhibition 1862”(3 vols)、徳川昭武や渋沢栄一のおとずれた1867年パリ万国博の情報新聞合冊本“L'Exposition Universelle de 1867 illustree”(2 vols)、様々な写真で1893年の閣龍博すなわちシカゴ万国博を再現してくれる“The Book of the Fair,an Historical and Descriptive presentation of the World's Science,Art,and Industry,as viewed through the Chicago in 1893"(2 vols)、万国博史上最も華やかで大規模な1900年パリ万国博に関する一番の基礎文献“Exposition Universelle Internationale de 1900 a Paris,Rapport General Administratif et Technique”(8 vols)等々…、これらの本のそれぞれが、その「形」だけで、すでに祭典の催された場所や時代の「質」を説明している。
    本の装幀や活字や挿絵は、時代の空気を吸い込み、吐息そのもので語るのだ。たとえばもし一葉の作品を正字旧仮名そのままにワープロで打ったとしても、一葉の「匂い」は、とうに失せている。
    本からの情報とは、意味内容のことばかりを指すのではない。
    漱石の“猫”を、わざわざ『ホトトギス』の連載でたどったり、あるいは中村不折や浅井忠の木版挿絵が入った橋口五葉装幀の大倉書店本でめくったりするのと、手軽に文庫本で読むのとでは、情報の質も量もまったく違うのである。

               


    筆写本は、人間のなまなましい息づかいさえ感じさせてくれる。
    図書館に『千九百年仏国巴里万国博覧会関係書類写 斎藤書記手控』(請求記号:ネ1 3995 1-3)なる手書きの三冊本が収蔵されている。一般図書である。押された印から、大学が、昭和24年5月6日に「購求」しとわかる。遺族から直接に買ったのか、古本屋から手に入れたのか、とにかく“珍品”である。びっくりするような情報がつまっているわけではないけれども、たとえば、日本部の会場獲得にあたっての交渉経緯や、日本館出品物を現代の製作物とせず古代中世の美術品としてくれというフランス側の注文など、ことこまかに写記してあって、読みすすめるうちに、まるで自分が万博事務に参画しているかの如き錯覚さえおぼえてくる。これが活字であったなら、臨場感はずいぶんと希薄なものとなっただろう。

 手蹟はいくつかのタイプに分かれるから、斎藤書記本人、あるいはその秘書や部下たちを含めてニ、三人が書いたのだと思う。
    斎藤書記とはいかなる人物か。
    万博終了後に農商務省から出版された『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告』の上編、書記任命の項に「斎藤甲子郎」の名がみえる。この男は、明治29年11月30日に当職に就き、明治31年7月8日、もろもろの万博事務折衝のため、林忠正と共にパリへむかった。図書館所蔵の『手控』は、斎藤甲子郎が書記となる直前の明治29年10月13日付の文書「在仏公使ヨリ博覧会所要地坪通報方申越之旨移牒」の写しにはじまり、万博事務官長に就任したばかりの林忠正から在仏公使館書記・安達峰一郎に宛てた渡仏間近の明治31年4月14日付「私信」をもっておわる。
    たぶん「斎藤書記」とは「斎藤甲子郎」なのではないか。
    斎藤はパリで、林の片腕となって働いた。林は明治32年7月24日一旦日本にもどった。留守中の事務は斎藤がひきうけた。前掲の『事務報告』によれば、林がもう一人の書記・宍戸猛をつれ、同年11月22日パリへ発ったのは「斎藤書記一人ヲ以テ、日夕繁ヲ加ヘ来ル百般ノ事務ニ当ラシムルノ難キヲ見」たからであった。

斎藤書記

  4年ほど前に、パリの国立図書館で“A Travers l'Exposition de 1990”という17巻のシリーズ本に目を通していたら、第14巻に、林忠正ばかりでなく、斎藤の顔写真まで載っていて、親しい知人と偶然出くわしたようなうれしさを感じた。トロカデロ地区の日本館や日本庭園は「海をこえる名声を博した事務官長の林氏と、友好の情にみちた卓越せる事務官補佐・斎藤氏」のおかげでできたのだと、同書の筆者G.de Waillyは述べている。斎藤は、この万博への献身的な寄与をフランス政府からみとめられ、レジオン・ドヌール勲章を贈られた。
    こんなことを書いてしまうと、ひょっとして、『斎藤書記手控』がとたんに貴重書扱いされ、はては、マイクロでしか読めなくなってしまうのではないか、などとうたぐり深いぼくは心配になる。
    前にあげた他の万博関係文献だってそうだ。この手の資料は大型で大部のものが多いから、安部球場あとに新図書館ができても、敬遠されて別置書庫に置きざりにされるかもしれないし、ずっとさきには、マイクロになってしまうことだってありうる。
    フィルムやコピーやCD-ROMで読むのは、「本」を読むのではない……。
    なんにせよ、マイクロ化は、いたしかたない世の趨勢だとは十分に承知しているから、そうなったら観念する。だけど、その過程で消滅してゆく本の生命に対するいたみのようなものだけは、図書行政にたずさわる人たちに、いつまでも感じていて欲しいと思う。
    そのいたみが、本の形成してきた文化の所在を、かすかであるにせよ、示してくれるからだ。(1988・12・8)

編集部注:編集の都合により文中の一行を削りました。






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