No.15(1988.11.5)p 12-14

本の周辺 7                                                                                                                           

「六星の光」151号に関する報告書



田辺淳也 (第一文学部教育学専修四年)
青木淳子 (第一文学部           一年)

1.初めに
    本年5月に早稲田大学図書館の未整理本の中から、点字雑誌「六星の光」151号が発見された。そこで本稿は、雑誌「六星の光」について概観し、「六星の光」151号の寄贈に関する一つの仮説を提起し、さらに151号の要旨をここに紹介するものである。

2.雑誌「六星の光」について

    「六星の光」とは、東京盲唖学校(明治42年4月6日東京盲学校と東京聾唖学校に分離、現在の筑波大学附属盲学校)の盲生同窓会によって、明治36年6月より発行された月間の総合雑誌である。この「六星の光」は、以前から発行されていた「同窓会報告」と鍼按学友会の「盲人世界」とを廃刊にして、一冊にして新たに発刊されることになった雑誌なのである。1号の発刊の辞には、「二種類の雑誌を発行して力を分割さるるよりも、一つに集めて全力を注いだ方が得策であることは、もっとも見易い道理である。」(読点は筆者)と記されている。「六星」というのは、点字1マスが6個の点から構成されていることに由来するものである。ここで雑誌名の表記について触れておくならば、151号においては、表紙では平仮名の「むつほしのひかり」、目次では「六ツ星の光」、奥付では「六星の光」、点字では平仮名で「むつぼしのひかり」(基本的に点字には漢字がない)であるが、本稿では奥付の表記を採用した。

表紙

   発刊当時は、やっと点字が出来たのに読むべきものがないという状況だったので、この「六星の光」は貴重な読み物として至極歓迎された。
    日本の点字について付言するならば、東京盲唖学校教師石川倉次の案が選定されたのが明治23年11月1日で、日本訓盲点字として官報に公示されたのは明治34年4月22日であった。

    今日盲人の間で最も広く読まれている点字週刊誌「点字毎日」(毎日新聞社)の創刊は、大正11年5月11日であり、日刊の「東洋点字新聞」(東洋点字社)の創刊は、大正14年6月1日のことである(戦後わが国において点字の日刊誌はまだ発行されていない)。

    「六星の光」の編集・印刷・発行のすべてを同窓会が担当していたが、昭和5年11月12日から同窓会の事業部が社団法人桜雲会となり、この雑誌の発行を引き継いだ。印刷方法は、早い時期にアメリカから点字原版制作機が導入されていたので、今日同様二つに折った原版を使用してのプレスによるものと考えられる。雑誌の内容は、盲界に関する評論や理療関係の記事の他、与謝野晶子や小川未明らの作家の文章も転載されており、かなり幅広いものとなっていた。この雑誌は、同窓会の会員にとどまらず、広く一般の盲人にも読まれていたようである。

    「六星の光」の発行は戦時中一旦途絶え、戦後は年1回程度発行されたが、主に同窓会の会報としての役割を果たすこととなった。昭和40年頃迄そのような状況が続き、正式に廃刊が決定されないまま休刊となり、今日に至っている。雑誌「六星の光」のこのような性格の変化には、いくつかの理由が考えられる。桜雲会が同窓会の事業部としての機能を果たさなくなったことも、その一つであろう。それ以上に大きな要因と思われるのは、戦後わずかながらも各種の点字書籍や点字雑誌が出版されるようになり、盲人を取り巻く文化的環境が著しく改善されていったことである。

3.発見された「六星の光」151号
    「六星の光」151号(大正5年6月28日発行、タテ25.3cm・ヨコ20cm、定価12銭)は、目次2ページ・本文(本欄・雑録)38ページ・広告2ページの計42ページから構成されている。また表紙の裏に目次が、裏表紙には広告と奥付が、それぞれ墨字(点字に対する普通の文字の総称)で印刷されている。紙質は今日の雑誌に較べて劣っており、発見された雑誌の保存状態もかなり悪い。なおこの雑誌には、「ひらの・ひさよ」・「はむもとみや」(原文のまま)とそれぞれ書かれた2枚の点字のメモが挾まれていた。

    ここで「六星の光」151号の点字表記について、その特徴を指摘するならば、次の通りである。すなわち、(一)句読点が使用されていないこと、(二)分かち書きに、統一性が見られないこと、(三)行替えの際、分かち書きの規則が殆ど考慮されていないこと、(四)単語の漢数字の部分や促音便を墨字の表記の通りに書く傾向があること、(五)拗音の表記が本格的には確立していないこと、(六)年月日や号数を表す際に下がり数字を使用していること、以上である。

    どのようないきさつで「六星の光」151号が早稲田大学図書館に所蔵されていたかを知る資料は、今日見当たらない。寄贈されたと考えるのは、妥当であると思われる。ところで大正時代に早稲田大学と関係のあった盲人は二人いる。一人は、日本福音ルーテル教会の牧師として活躍した石松量蔵(1888〜1974)である。もう一人は、エスペランティストで放浪の詩人として有名なワシリィ・エロシェンコ(Vasilii Eroshenko,1890〜1952)である。

    石松は、九州学院神学部に学んで後、大正5年9月から2年間、大学部文学科哲学科の聴講生として、早稲田大学に在籍した。またエロシェンコは、大正3年4月初めて来日し、大正5年7月に一旦日本を離れるが、その間秋田雨雀や片上伸らとも親しく交際している。そしてエロシェンコは、大正8年7月に日本へ戻ってきて、早稲田大学において学んでもいるのである。この二人は「六星の星」に度々原稿を寄せており、熱心な購読者であったことはまず間違いない。今回発見された「六星の光」151号が誰かによって寄贈されたとするならば、それは石松かエロシェンコによって寄贈されたという可能性が高いと思われるのである。

4.「六星の光」151号の要旨
    本欄には、「盲界の新機運」、「琴唄譚(ものがたり)」、「ヅァブルドスキー氏マッサージ手技(十二)」、「復活祭の日」の4稿が掲載されているが、「盲界の新機運」以外は連載の一部である。また雑録には、「盲詩人高蘭亭」及び「時局と盲人」といった連載のほか、「会員消息」という欄も設けられている。

    「盲界の新機運」を執筆した新津吉久は、東京盲学校の同窓生で、「六星の光」の編集にも携わっていた人である。新津は、大正5年5月の中央盲青年会におけるエロシェンコの演説を引用しつつ、「盲人は、自ら盲人なりと思惟し、あまりに孤立的になって社会より隔離しがちな傾向がありはしなかろうか」(読点は筆者)と指摘している。そしてヘンリー・フォーセット(Henry Fawcett)の盲人観を尊重する新津は、「近時新聞・雑誌等において多くの盲人に関する事項の掲載せらるるを見るは、社会が盲人に対し注意を向けて来たる事、盲人を人として取り扱うようになり来たれる事を、知るのである。故に盲人の知識開発と共に……(中略)……この喜ばしき新機運を益々良き方向に導かれる事を望むのである」(句読点は筆者)と結んでいる。

    砂押重幸の「琴唄譚」は、小説である。本号が数回にわたる連載の1回目で、内容や文体からして古典とも思われるのであるが、詳しいことがわからない。なお末尾には(未完・転載を禁ず)と書き添えられている。

   江村悌造による「ヅァブルドスキー氏マッサージ手技(十二)」は、長期にわたる連載の1回にあたる。この号で取り上げられている内容は、揉捻法である。築地の山田病院の医者であった江村は、ドイツ語の医学書を翻訳して、東京盲学校教諭富岡兵吉を通じて「六星の光」に紹介していた。

    ワシリィ・エロシェンコの「復活祭の日」は本号から連載が開始されたもので、冒頭の文章から判断して、秋田雨雀らと復活祭の式を駿河台のニコライ教会へ見に行った翌日に執筆されたと考えられる。その内容は、故郷ロシアでの復活祭の思い出である。ただエロシェンコの文の終わりに編者が、「全部を読破して初めて其処に何等かのヒントを与えらるるものもある也」とわざわざ記している。

    石川二三造の「盲詩人高蘭亭」は、大正5年5月10日に東京盲学校において生徒のために講演されたものを、筆記して掲載したものである。自身弱視であった石川二三造は、わずかの期間ながら東京盲学校でも教鞭もとっており、盲偉人の研究で名高い人である。本号が連載の初回にあたり、ここでは徂徠の門人の蘭亭が失明して、詩を読むことに人生を見出すようになったことが、蘭亭自身の詩を紹介しながら、述べられている。

    「時局と盲人」は、ドイツにおいて発行されていた「ブリンデン ブロインド」の記事を町田則文が翻訳して紹介したもので、連載は本号から数回に及んでいる。本号での主たる内容は、失明軍人を勇気づけるもので、諸能力の活用と就業方法の変換で恐怖することなく生きていくことが可能であると熱っぽく論じている。

    「会員消息」の爛では4名紹介されているが、その中には鳥居篤次郎の名もある。

    最後に、広告の欄には、次の3件が掲載されている。一つは東京盲学校同窓会からの点字書籍に関するもので、もう一つは日本盲人点字書籍出版所からの点字書籍に関するものである。他の一つは青木実意(じつい)からの鍼灸関係の書籍に関するものである。

なお筑波大学附属盲学校の資料室に所蔵されている「六星の光」は、次の通りである。
1〜240,259,267,309,320,325〜330,337〜366,368,371,380〜381,383〜384,387,395〜396,400〜401,407,417,423〜424,428,430〜431,433,446〜448,455〜457,464,469,471号、以上である。


付記

本稿をまとめるにあたり、筑波大学附属盲学校の下田知江教諭及び早稲田大学教務部学籍課に、お世話になった。ここに記し、感謝の意を表するものである。 昭和63年9月25日 成稿。

編集部注:「六星の光」151号は整理済となりました。
     請求記号 サト482(1)


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