No.15(1988.11.5)p 6

「捨吉」に三好さんを偲ぶ

「三好十郎」展を観て

                                                                   池  田  正  二

(桜隊原爆忌の会 世話人・俳優)



    昭和6年、前の年に中学を卒えたばかりの私が、築地のプロレタリア演劇研究所の研究生だったことから、左翼劇場公演・三好十郎作「恐山トンネル」に其他大勢の坑夫で舞台出演、以降三好さんの諸作を上演した“新築地劇団”、戦争末期に三好さんの「獅子」を持って巡演した“桜隊”、戦後は三好さんが連夜の稽古に立ち合った程の“戯曲座”と、長年の間には言うに言われないお世話にもなって、三好さんの全労作の凡そは折にふれ読んでいた。然し少年時代の事は人伝てに聞いていたに過ぎなかった。
   
    20余年前初めて三好さんの手記「生涯からのノート」を読み、強い感銘を受けた。この少年期の苦渋に満ちた、 打ち砕かれた体験こそ、教養とはなんだと問いかけ、それは思いやりのことだと、あるいは人の痛みを思いやる心だと、余人には吐けぬ片言 ともなり、没後30年生き続けてやまない、全労作を生む母体ともなったと知った。そんな私だから少年期の資料は特に興味深かった。 その一つ、会場へ入ると最初が少年期のコーナーで、すぐ目についたのが、勝二・十郎兄弟の写真だった。二人共利発そうな、ふっくらした顔立ちで、父の顔 を知らずに育ったというにしては暗い影もなく、むしろ端然とした容姿は一寸意外だった。「手塩にかけて育ててくれた祖母が日頃、お前のお祖父さんも、そのお父さんも さむらいだったと言っては威張っていた。言われる私もえらくなったような気がし、喧嘩しても負けたことがなかった」と書き留めている。成程、少年武士の面影さえあると頷けた。

   
    だが弟だけが袴着用は妙だ?丈が短かく、新調でもないとわかる。ふと、私は、母が仕立てた袴をはかされて、父と入学式へ行って帰るや、隣の人が写真を撮ってくれた記憶がよみがえり、そうだ、目の前の写真もそれだと一人合点した。祖母さんは勝二のお下りの袴をはかせ、これ迄わが袂にすがりついて、祖母さんの腰巾着と評判をとった孫の手をひいて、いそいそと入学式へ行ったのであろう。満州の娘夫婦へ二人の姿を見せてやりたいと、三人連れで 写真館へも出かけたのでは。三人で写すと真中の者が早死にするという迷信か?祖母の姿が見えないのは惜しいと、定かでもないのに余所者は、様々に思いめぐらす写真だった。

   思いがけない事に、三好さんが亡くなった年にNHKが放送したラジオドラマ「捨吉」の録音テープが会場で聞けたことはありがたかった。

−みなし児の捨吉と俺が夜八ヶ岳麓の谷川の小道を辿る。崖を登れば見はるかす秋の草原−。耳をそばだてて聞くうちに、30年前の初演を聞いた時、「捨吉」は十郎少年の投影で、「俺」は今日只今の作者その人だと思った、その記憶がよみがえった。


勝二・十郎兄弟

−君は父親や母親にあいたくなることはないかね?
   ケケケと猿のように捨吉が笑った 一度なあ、みつけてやるべえと思って    駅の所に立っていたら 男の人や女の人がいっぺえ通ってよ    そん中に父ちゃんや母ちゃんがいるような気もするし    いねえような気もするし  おんなじようなこんだと思って    さがすのはやめた    ヒョイと気がつくと    俺の両頬がつめたい    いつのまにか涙が流れている  (中略)  気がついてみたら    俺は声をあげてクスクス笑い出していた(中略)    俺の中から死のうという気が     まるでなくなっていた(中略)

   私はドラマの台詞を書き取りながら、重い病床にあった三好さんがわが来し方を偲び、捨吉のお前があってこそ今日迄戦い続けて来れたよと、少年・十郎をいとおしむ声が聞こえて来るようだった。



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