新収資料紹介 13
蕉門十哲の一人、向井去来(慶安4−宝永元)は、俳人としての力量・人格ともに門中随一の人物として、芭蕉が最も信頼を寄せた門弟であった。京・嵯峨に落柿舎を営み、終生師説を守って蕉風の真髄を体得、高雅清寂の作風をもってきこえた。
去来の書簡は、現在22通確認されており、新収の本書簡もすでに公表されたものの1通である。
本書簡には宛名は見えないが、書中後半に「御発句」として、「腫物に」等の芭蕉の句が挙げられている事等から、元禄7年の5月に師の芭蕉に宛てたものであることがわかる。同年10月の芭蕉の死に先立つこと5カ月のことであった。
内容は、去来が「浪化集」(元禄八年刊『有磯海・となみ山』)を後見するに際し、その入集句が、江戸の芭蕉の方で計画進行中の「其元ノ集」(『炭俵』『続猿蓑』)と重複しないよう問合わせたものである。しかし、芭蕉は5月11日に江戸を発ち、最後の上京の途に着いているので、この書簡とは行き違いになってしまい、その後、芭蕉の許に回送されたかは明らかでない。また、「其元ノ集に入候句」に印をつけてほしいという去来の頼みに応じたような○印も、誰の手によるものか現在詳らかでない。ただ、○印の付された6句のうち5句までが『続猿蓑』に入集しており、芭蕉が同年9月頃伊賀で同集の整理をした折、自ら付したとも考えられる。
本書簡には、土芳、丈草、支考、史邦といった門友の他、可南、魯町、牡年、田上尼、卯七など去来の縁者、あるいは指導下にあった人々の名と句が多数挙げられており、上方における去来の、蕉門の重鎮としての立場を窺うことができる。また、「煤掃ハ」や「花守や」など、芭蕉及び去来の句で従来年代が明らかでなかった句が、この書簡によって元禄六年の作と推定されるなど、きわめて重要な材料を提供している。
最晩年の芭蕉・去来の交流、そして当時の撰集編纂の内情をつぶさに伝える本書簡、116行172cmに及ぶ長巻であるが、以下その全文を紹介する。 翻字
去年申上候発句ども、 鶯に橘見する羽ぶき哉 土芳 荒壁や裏もかへさぬ軒の梅 素牛 此ハ自集ニ出申候。 饂飩打跡や板戸の瀧月 丈艸 此ハ露川が集ニ出候。 鳥の音もたえず家陰の赤椿 支考 此句、他ノ集ニ出候。併、句作ぬるく候間、 仕直し候而、此度の集ニ出し可申候と奉存候。 竜壷に命うち込小鮎かな 為有 爪切シ若菜の汁のうすミどり 登帆の明石はなれぬ塩干哉 去来 花守や白キかしらをつき合セ 同 此句、心桂と申者の集に出し候句ヲあやまりて出し候。 先頃いセの文代と申者まいり候而、発句を望候故、 最早出たる句ニ候故、此句を入直し候へと、申遣し候。 茨原咲添ふ物も鬼あざみ 荒雀 山藤の気まゝを見たるしだれ哉 卯七 山の手を力がほ也春の月 魯町 ○燕や畑をりかへす馬の跡 野童 照りつゞく日や陽炎や柴うつり 史邦 ○時鳥なくや雲雀と十文字 去来 此ハ車庸が集ノ歌仙ニ出。 ○京入や鳥羽の田植のかへる中 卯七 花げしや南の町の衣配り 可南 はねつるべ蛇の行衛やかきつバた 丈艸 蕣の二葉にうくるあつさ哉 去来 石ぶしや裏門あけて夕涼ミ 牡年