No.14(1988.6.25)p 8-9

本の周辺4                                                                                                                  

早稲田大学図書館教林文庫蔵                                                     
『地蔵菩薩念誦儀軌』について

斎藤洋一(文研)         


    早稲田大学図書館の教林文庫には『地蔵菩薩 念誦儀軌 ( ねんじゅぎき ) 』の近世写本が収められている。ここでは、この珍しい儀軌(後述)について、主に教林文庫本によりながら述べてみたい。

    『地蔵菩薩念誦儀軌』は地蔵菩薩について記された儀軌である。儀軌とは、仏や菩薩に対する造像、念誦(真言を心に念じ、口に誦すること)、供養の方法・規則を説いた典籍のことをいい、儀軌は、経典とともに、造像などに際しての基準を示すものとして、古来重視されている。地蔵菩薩念誦儀軌には、この儀軌にしかみられない記述があるものの、この儀軌はこれまで言及されることはほとんどなく、言わば忘れられた儀軌となっている。

教林文庫本『地蔵菩薩念誦儀軌』
奥書 奥題
   教林文庫は、宝永7年(1710)、兜率溪阿闍梨己講 厳覚 ( げんかく ) によって謄写されたもので、訳者は金剛智となっている。本文は約1800字、釈尊が聴衆に「地蔵菩薩に真言法あり」と告げるところからこの儀軌は始まる。地蔵菩薩が登場し、地蔵菩薩の真言、印を説いたのち、真言法が明らかにされる。これは地蔵菩薩とその六使者(後出)の尊像を西方に安置し、行者は尊像のある西方に向かって念誦の法などを行い、真言三十万遍を誦するものである。これによって、行者は臨終の時に無量寿仏
(阿弥陀仏に同じ)と地蔵菩薩の姿を見、極楽世界 上品上生 ( じょうぼんじょうしょう ) に生れることが出来るとされる。また毎日真言百八遍を誦すれば、地蔵菩薩が童子となって行者に随う、などと説かれる。この後、 雨宝 ( うほう ) 形像 ( ぎょうぞう ) という地蔵菩薩の別の姿や、六使者それぞれの印・真言が説かれ、この儀軌は終る。奥題には「地蔵菩薩念誦儀軌?使者法一巻」とある。

    この儀軌の特色は、浄土信仰の流入にも見られるが、ここではこの儀軌に説かれる地蔵菩薩の姿と六使者に注目したい。この儀軌では、地蔵菩薩は 声聞形 ( しょうもんぎょう ) (出家した僧侶の姿)で、左手に如意宝珠、右手に 錫杖 ( しゃくじょう ) をとる。これは、平安時代の末以降、わが国で造られる地蔵菩薩の大部分を占める姿であるが、なぜ宝珠と錫杖を 持物 ( じぶつ ) とするに至ったかについては詳らかにしない。地蔵菩薩念誦儀軌の記述は、この姿の地蔵菩薩に対して新たな典拠を加えるものとして、重視されよう。

    地蔵菩薩の姿に続けて六使者が説かれる。六使者とは焔魔使者、持宝童子、大力使者、大慈天女、宝蔵天王、摂天使者をいい、この六使者は他の儀軌や経典には説かれぬものの、名称だけは知られていた。これは、六使者の名が書き入れられた図像が知られていたためで、仁和寺所蔵の「地蔵菩薩曼荼羅」(重要文化財)はそのうちの一つにあたる。この図像は、中国宋代成立の図像を、平安時代末期にわが国で転写したものとされ、地蔵菩薩念誦儀軌とこれを比べると、六使者の名称は完全に一致し、姿もいくつかの相違点はあるもののほぼ一致する。これは、この図像の典拠を明らかにするばかりでなく、宋代仏教のわが国への影響を考える上からも、文献と図像が揃う例として、注目されよう。また、東寺観智院所蔵の『覚禅抄』に載せられる「地蔵菩薩曼荼羅」は、文字の書き入れを含め、この儀軌と全く矛盾がない。仁和寺本の図様との相違はいかなる事情によるものか、問題点が残される。

    この儀軌が文献に引用されることはほとんどないが、唯一『溪嵐拾葉集』巻題25(『大正新修大蔵経』所収)には、この儀軌がほぼ全文にわたって引用される。『溪嵐拾葉集』は14世紀初めの撰述で、公刊に際しての底本は、応永21年(1414)にされたものである。ところが、この底本は、宝永21年(1710)書写の教林文庫より古いものの、脱文や誤字・脱字が多く、却って年代の新しい教林文庫本によった方が、この儀軌の内容を良く理解出来るのである。


仁和寺所蔵「地蔵菩薩曼荼羅」
    このことから教林文庫本は、応永21年を遡る年代の写本の内容を伝えるのではないかと想像される。 教林文庫本の奥書には、治承4年(1180)10月19日に書写が行われたこと、この儀軌の写本が高山寺の「台第四箱」に 納められていることが記されている。そこで調べてみると、高山寺の法鼓台には、平安時代末期の『地蔵菩薩念誦儀軌』 の写本が所蔵されており、表紙には「台四」、奥書には治承4年10月9日に書写された旨が記されている、 これは教林文庫本の奥書と一致するもので、これにより『地蔵菩薩念誦儀軌』は遅くとも治承4年にはわが国に存在し、 その写本が高山寺に現存していることが判る。教林文庫は、この高山寺本が幾度かの書写を経て伝えられてきたもので、 『地蔵菩薩念誦儀軌』の珍しい写本であるばかりでなく、今日に良くその内容を伝えている点からも貴重なものと言えよう。

    なお、教林文庫及び厳覚については、田嶋一夫氏の「教林文庫考(覚書)」(『国文学研究資料館文献資料部「調査研究報告」』昭和60年3月)に詳しい。

東寺観智院所蔵『覚禅抄』より
「地蔵菩薩曼荼羅」




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