No.14(1988.6.25)p 2


図書館事務日誌にみる近代史




    図書館特別書庫に「要件日誌」「庶務日誌」など名前は変わるが、早稲田大学と改称した明治35年からの事務日誌がある。発表を予定して書かれたものではもちろんないし、当然のことながら業務上の内容を主としている。しかし、この日誌も歴史の外にあるわけではなく、淡々とした記述にその反映が散見できる。以下その抜粋である。


[請求記号 ト10―2069 特別図書]

大正12.  6.  5  恩賜研究室へ判事臨検    二三教授の室を捜索す    共産主義に関する事なりといふ

日本の社会主義、労働運動が高揚した時期。前年に創立された共産党の第一次検挙がこの日。

大正14.  6.  4 戸塚分署勤務某来館    禁止図書の件につき時々通知方話あり

昭和  5.  4.10 学生課より    文部省への報告の必要上    今後左傾思想の図書閲覧するものゝ人数及冊数を調査する事となる

昭和  6.11.  7 共産党宣伝ビラ配布の学生六名捕はれ    警察へ送らる

大正14年に公布された治安維持法が、昭和3年には緊急勅令によって最高刑を死刑に、目的遂行罪を新設するなど改悪される。また、特別高等警察課が各県に設置された。これらによって思想調査が相当厳しくおこなわれるようになったことが窺える記述である。


昭和10.4.10 戸塚署より美濃部博士図書差押のため来館す     交渉の結果前例により通知あるまで別置とす

美濃部達吉の天皇機関説は貴族院本会議で非難・告発(不敬罪)され、著書は発禁(10.4.9)となる。これを機に政府は国体明徴に関する声明を発表し、以後、軍部の勢力が伸長。昭和12年7月7日についに中国へ全面戦争を開始。ここで興味深いのは館員の(おそらく責任ある立場の)交渉によって「差押え」を事実上回避したことである。この時別置された図書は、今も1冊をのぞき健在である。

昭和15.1.10 教務課の依頼により津田左右吉教授の著書の読者数を報告す

津田の記紀批判は万世一系の皇室の尊厳への不敬とされ、やはり発禁、起訴(15.3.8)(判決は発行者岩波茂雄とも無罪)。その年10月に大政翼賛会発足。翌16年12月8日に真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入していく。

昭和17.4.18 零時二十分敵機数機数万方向ヨリ小癪ニモ我ガ本土へ初見参    京浜方面ヨリ飛来セル敵ニ機我ガ学園を盲爆セント    二キロ或ハ三キロ級ノ焼夷弾ヲ投下セシガ強風ノタメ風下某町附近ニ落下待期(ママ)中ノ学園特設消化班及ビ報告隊ノ勇士約五十名の大活躍ニヨリ大事不至鎮火セリ

大本営発表とは裏腹な敵機来襲のためか、この日の記述はめずらしく具体的であり、感情を露にしている。焼夷弾のひとつは早稲田中学の校庭に落ち、生徒ひとりが亡くなっている。その2ヶ月後、日本はミッドウェー海峡で敗れ、戦局は大きく傾いていく。なお、戦時下でも図書館業務は続けられ、敗戦直前の昭和20年5月30日まで開館していた。
  
 


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