No.13(1988.2.15)p 16-18

              本の周辺 3

綜合文芸誌の原点                                                       
『ザ・ジェントルマンズ・マガジーン』

出口保夫(教育学部教授)


    世界の文芸界に創刊されている雑誌は、ゴマンとあるにちがいないが、200年も続いている雑誌はきわめて稀有である。『ザ・ジェントルマンズ・マガジーン』(The Gentleman's Magazine)(以下G.M.と略す)は、一種の綜合文化雑誌であるが、1731年から1907年まで続いた。200年には少しおよばないが、それでもこの雑誌の歴史は3世紀にまたがっている。イギリスには『ジ・アニュアル・レジスター』(The Annual Register)のように、1758年に刊行されて今日もなお続いている雑誌もあるにはあるが、その内容はとてもG.M.にはかなわない。この雑誌はG.M.に対抗するものとして、18世紀でも野心的な出版者のロバート・ドッズリーから出されたが、今日ではこの雑誌は、単に時事年鑑的な内容になってしまって、昔日のおもかげはもうない。

    わたしがG.M.の存在を知ったのは、大英博物館のリーディングルームで、1963年のことである。今日ではそこは大英図書館(以下B.L..と略す)となって、かつてリーディング・ルームの北側の歴史関係のリファレンスの書棚にこのG.M.の革製の装丁をほどこされた300巻をこえるバックナンバーが『ジ・アニュアル・レジスター』のバックナンバーとともに並んでいた。お恥かしいことにこの時まで、わたしはこの雑誌の存在を知らなかった。つまり日本の英文学界では、本文批評を中心にした研究がほとんどで、歴史的ないしは文献的研究は、かえりみられない状態で、1963年以前にこの雑誌ないしは、イギリスの文芸雑誌とか、綜合文化雑誌に言及した書物は、ほとんどなかった。

    それにしても、G.M.の一冊がわたしにあたえた衝撃は大きかった。わたしはその時、イギリスの19世紀のロマン派の文学、ことにジョン・キーツに関心をもっていて、その時代背景を少し調べようと思って、この歴史リファレンスの書棚の前に立ったのである。

    今日でこそ雑誌を意味する英語は、「マガジーン」であることぐらいは、中学生でも知っているが、そもそもこの言葉が雑誌の意味にもちいられたのは、G.M.が最初であった。この雑誌を創刊した人物は、エドワード・ケイヴで、ジョンソン大博士が「窓から外を見ている時にも雑誌の改良のことが念頭を離れなかった男」と評したことは有名である。つまり1731年以前の雑誌は、「マガジーン」とは名付けられていなかったのである。むろんG.M.がケイヴひとりのひらめきだけでできあがったわけではない。17世紀も末期になると、イギリスにもようやく定期刊行物が、ぼつぼつ現れた。なかでも『ジ・アセアニアン・マーキュリ』(The Athenian Mercury)と『ザ・ジェントルマンズ・ジャーナル』(The Gentlman's Journal)の2誌は、G.M.の内容に大きな影響を与えた。

    18世紀の初頭にはデフォの『ウィークリー・レヴュー』(A Weekly Review)とか、アディソンとスティールの『ザ・タトラー』(The Tatler)と『ザ・スペクテイター』
(The Spectator)など文学史上貴重な定期刊行物が刊行されているが、これらは近代文芸ジャーナリズムの視点から見ると、厳密には「マガジーン」と呼べる内容ではなかった。イギリスで「マガジーン」の原型は何かと問われれば、誰しもこのケイヴのThe Gentleman's Magazineを指すにちがいない。つまりこの雑誌は、イギリスのみならず、世界の文芸界における雑誌の原型と見做してもさしつかえないのである。
エドワード・ケイヴ

    「マガジーン」は本来フランス語の「マガザン」であり、それは倉庫のような意味に使われていたが、ケイヴはそれを「知識の宝庫」を意味するように用いたのである。そしてここにおいて総合文化雑誌としての性格が決定した。

    ケイヴによって完成された「マガジーン」の内容とは、1)週間エッセイ 2)詩選 3)内外ニュース 4)議会記事 5)新刊紹介 6)出生・死亡・結婚・昇進人事 7)物価と株価の動向 8)銀行破産者名簿 9)ロンドンのストランドにおける日に3回の気温と気象の記録などであった。

    わたしはまず詩人キーツの生れた1795年10月31日の気象を調べた。その日は気温は低く空は嵐模様である。これはキーツのこれまでの伝記に、誰も言及していない事実であった。それから貸馬車やの父親トマスの、馬車が横転して死亡したという記事ものっている。しかもさらに頁を繰って見ると、当時のロンドンに馬車の転覆による事故死も、決して少なくないことが分かるのである。わたしはまるで歴史のひだを、一枚一枚繰るような思いで、この雑誌の頁をひらいた。

    われわれは、歴史というものを、政治を中心に考え、大きな政治的事件によって時代の区切りをあたえているが、それは単に便宜的なことにすぎないのである。たとえばG.M.のような雑誌を、ほぼ200年にわたって通読してみると、時代というものが、ほとんど10年、いや5年単位くらいで変化することに気づくのであって、実際、生活レベルの事象を詳細に見て行くと、そのような変化の法則が見出されるのである。歴史を学ぶものは、このレベルの事実にも目くばりがひつようであろう。

   あれから20余年、その後しばしばわたしはイギリスに行く機会にめぐまれてきたが、ロンドンに着くと、まずホテルで旅装をとかぬうちに、近くの大英博物館(この近くに滞在することにしている)に出かけ、大英図書館のリーディング・ルームに直行する。放射線状にのびたデスクは、だいたいいつも座る場所が決めてあるので、その席に座ると、たとえ1年なり2年の空白があっても、まるで昨日のつづきのように、すぐに読書と研究にとりかかることができる。わたしにとってこの図書館ほど居心地のよい、ぜいたくな場所はない。母校早稲田大学の図書館や研究室のそれでも、はるかに及ばない。そして不思議なことに、わたしは外国にいることさえ忘れてしまう。本を読むことに倦みつかれると、ギリシャやローマの彫刻を見に行く。あるいは中世の写本を見る。ティーを飲む。付近の古本屋を散策する。

    そしてそこへ行くたびに、今はノース・ライブラリーに移されたG.M.のバックナンバーを見に行く。オクスフォード大学のボドリー図書館へ行く時も、わたしはかならずアッパールームにあるG.M.のまえの座席を占める。しかし正直いって、オクスフォードでの生活は、B.L..での生活にくらべるとやや単調である。ただボドリーには、B.L..にない書物があるので嬉しい。B.L..は第2次大戦のドイツの空襲によって、何万かの貴重な書物を焼失したのである。

同誌発祥の地 
セント・ジョンズ・ケイト

   この20数年、わたしはこの雑誌に、どれだけ恩恵を蒙ってきたか分らない。専門のイギリス文学研究はいうまでもなく、G.M.はじめ古い雑誌を繙き、それらを何千冊と読んでいると、まったく思いもかけぬ歴史的事実の発見に出会うのである。そしてそうした事実をカードに記録しておいたので、『イギリス文芸出版史』は当然のことながら、『ロンドン・ブリッジ』とか『英国紅茶の話』というような専門外の書物も、何冊か書かされる羽目になったし、『ロンドンの夏目漱石』のような本も、やはり同じように歴史的事象の渉猟の副産物として、生まれ出たものなのである。

    ここ10年あまりのあいだの、わが国の大学図書館の充実はめざましい。18,19世紀のイギリス文芸雑誌についていえば、主要なものはほとんど収蔵されることとなった。なかでも本学におけるこれらバックナンバーの収蔵は、国内ではもっとも充実した内容を誇るものである。しかし18世紀のバックナンバーは、すべて稀覯書扱いとされているために、その利用が大変不便になった。G.M.はいうなれば、あらゆる分野の研究者にとって、基本的なリファレンスなのであるから、こうした歴史関係のバックナンバーは、開架式の書棚に置いて欲しいのである。このことを新図書館に希望しておく。

G.M.Vol.2のタイトルページ G.M.Vol.8
 S.ジョンソンが初めて寄稿した号

※なお、同誌は本館でもVol.103まで所蔵しているが、一部欠本を電子複写で補っている。
Gentleman's Magazine; and Historical Chronicle. (1731-99)V.1-69. SZ1/220a/(1-86)特別
                                         (1800-33)V.70-103. SZ1/220/(1-66)     



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