No.13(1988.2.15)p 2-3

帰ってきた裸婦像
――木内五郎作「 ( たたず ) む女」をめぐって――



「彳む女」製作中の木内五郎(中央)
建畠大夢のアトリエにて


    表紙に掲げた塑像「彳む女」が館蔵に帰したのは、昭和5年6月のことであった。以来60年、ホール階段脇に飾られ、図書館を訪れる人々に親しまれてきた。数年前に破損のため撤去されていたが、先ごろ修復が成り、再びもとの場所に設置された。これを機に、「彳む女」と作者木内五郎について、この間の調査をまとめ、紹介することとしたが、「彳む女」が館に入ったいきさつについては、これまでのところ確証を得ていない。いったい、「彳む女」はどのような機縁でホールを彩ることになったのだろうか。

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    「彳む女」の作者木内五郎は、明治31年東京向島に、木内半古の五男として生れた。祖父喜八は名人とうたわれた木工家で、特に木象嵌の技に秀れ、東京国立博物館所蔵の「円柏波千鳥蛇籠象嵌大火鉢」など多くの名作を残した。父半古は家業を承け、祖父同様木象嵌をもって一家をなした。明治37年より正倉院御物整理掛に出仕、御物の修理を手がけ細密な木画技術を能くするに至った。15最年長の次兄省古は祖父や父に木工を学び、父に随って正倉院御物整理に従事、以後天平の技法の復元を志した。その作品は、国内は言うに及ばず、海外にも高い評価を得、晩年は日本工芸会の理事として斯界に貢献した。長兄辰三郎は早稲田大学を卒業し外交官になったが、早稲田で会津八一と同級であった。明治37年ごろ、辰三郎の紹介で、八一は初めて向島梵雲庵に淡島寒月を訪れている。この頃から、八一と木内家との間には長く親交が、結ばれた。

    こうした環境にあって、五郎は早くから彫刻に興味を示し天賦の才を顕わした。明治45年早稲田中学へ進み、英語教師として教鞭を執っていた会津八一の教えを受ける。大正7年東京美術学校彫刻科へ入学、建畠大夢に師事し、本格的に彫刻の道を歩み始める。12年3月同校を卒業。当時、卒業制作の中から各科1,2名ずつ成績優秀な作品が買い上げられたが、五郎の卒業制作「若き女」も後進の模範とするべく母校に残された。

    卒業の翌年、第6回帝展に「静流」で初入選を果たし、以後連続入選、昭和14年には交展無鑑査となる。この間2度にわたって中国へ遊び、一段の進境を示した。昭和4年の作「彳む女」は、五郎31歳、新進作家として最も充実した時季の作ということができる。当時の作品評に「修飾なき日本の女の體を克明に写した」とある。(雨田外次郎、『美之國』昭和4年11月号)
木内五郎 昭和11年4月
    昭和7年1月、結婚を間近に控えた五郎のために、会津八一が発起人となって作品頒布会が催されたが、この時八一自らが筆を揮った「木内五郎君作品頒布会趣旨」が残されている。この書帖は、昭和56年に東洋美術陳列室の行った「會津八一博士生誕百年記念展示」に出陳されたこともあり、少年の頃からその成長を見守ってきた五郎への、八一の心情を窺うことができる。やや長くなるが、以下その全文を引く。


木内五郎君作品頒布会趣旨

名人喜八の翁の孫、半古翁の子なる木内五郎君は幼少より彫刻に本然の技能を示されしが、後東京美術学校に入り建畠大夢教授の指導を受くるに及び天賦の材いよいよ光趣を生じ、大正十二年のその卒業制作は永く同校に留めて学生の模楷とせらるゝに至れり。爾来毎年欠くことなく帝展に出陳を許されつゝあるは人の知るところなり。君資性温厚、父兄に仕えて孝悌、朋友に交りて忠信、平素黙々として芸術の研究に心を潜めて余念あるところなく、これ同人のひとしく推服するところなれば、其作品がつねに典雅浄潔を以て評壇に歓迎せられつゝあるも亦た所以あるといふへし。君また先年支那に游び東洋美術の精粋を観て帰へり、その作るところ別に一種の妙趣を出し来り。同人甚だ其将来に嘱目しつゝありしに、たまたま君は新たに好配を得て新家庭を営まんとせらる。同人乃ち君に勧めて作るところの品を頒たしめ、其生計の安定を授けて天賦の行くところを縦にせしめんとせり。大方博雅希くはこれを賛けたまはんことを。
昭和七年一月卅一日



会津八一筆
「木内五郎君作品頒布会趣旨」(部分)



    以下、発起人として、会津八一、坪内逍遙、正木直彦、市島春城、平沼淑郎、建畠大夢、高田早苗、高村光雲等13名、賛助員として、北村西望、板谷波山、内藤伸、岡村千曳当12名が名を列ねている。

    昭和18年、五郎は45歳で応召しハルマヘラ島へ出征した。21年後に復員後、22年度、23年度とつづけて文展委員をつとめ、23年からは日本学園中学・高校に教鞭を執る傍ら、肖像作品の他、戦前から手掛けていた能を主題とする木彫を多数制作した。母校芸大には「翁」の像1点が蔵せられている。昭和29年、病を得て亡くなった。56歳であった。




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